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ル・グインとクレーヴスと天皇と
旧ブログ 2016年12月26日 (月)

 今回は,三日遅れで天皇誕生日に寄せる妄語です.とりとめのない,根拠のない,よく知らないことについての妄想で,民族学・神話学・あるいは政治に詳しい方から見ると噴飯ものだろうことを,あらかじめお断りしておきます.そもそも,フレーザー,折口あたりを並べるところに,ル・グインとクレーヴスという小説家を持ってくるのが素人談義の所以.さて,それでもこの後を読みますか?

1. ル・グイン
 アーシュラ・ル・グインというSF作家がいます.あの『ゲド戦記』の原作者です.もっとも,アニメの『ゲド戦記』は原作から登場人物の名前を借りてきただけで,内容はまったく別の話だと聞いたこともありますが,今日はその話ではありません.
 ル・グインの小説には,民族学・神話学の知見が取り入れられていることがよくあります.
 たとえば,世界各地の神話的・呪術的な考え方に,真の名前を知ることは,それを支配し,所有することだという考え方があるそうです.このような考えに基づいて,西洋の魔術には,支配したい相手の真の名を見つけ出し,それを呼ぶという儀式があるそうです.また,昔の中国では,本当の名を呼ぶのを避けて通り名で呼ぶ習慣があったそうですし,日本には,天皇が女性の名前を尋ねる和歌がありました.これらも,名前の呪術的な意味と関係しているのかもしれません.
 このような考え方があることを私が初めて教えられたのは,実はル・グインのある短篇小説(「名前の掟」)でした.そういえば,『ゲド戦記』でも,真の名前は名付け親から本人だけが教えられ,秘密とされる,という挿話があったように思います.

2. ロバート・クレーヴス
 神話的・呪術的思考のなかには,自然の再生を祈って王を殺すというものがるそうです.年の終わりには,太陽の力が衰え,自然は死に向かう.そのとき,自然と呪術的につながっている王を殺す.それにより,自然はいったん死ぬが,新しい王の戴冠により自然も蘇る.そんな考えから,歴史以前の呪術的な世界では,毎年,冬至前後に王が殺されていたという話です.この場合,王というのは政治的な権力者というより,自然と特別な関係にある祭司です.祭司としての王と言えば,卑弥呼なども,政治的権力者というより,巫女のような存在で,実際の政治は他人が行っていたという話を聞いたことがあります.
 このような「自然の死と復活のための王殺し」,「犠牲の王」という考え方があることを私が知ったのは,イギリスの小説家,ロバート・クレーヴスの書いたギリシア神話の本でした.小説家の書いたギリシア神話なら面白かろうと,高校生には高価な『ギリシア神話』2巻を買って読み始めたら,神話の物語より,こんな民族学・神話学の話が多いくらいだったのでかなり戸惑ったことを覚えています.

3. ふたたび,ル・グイン

 さて,ル・グインに「オメラスから歩み去る人々」という短篇があります.今は文庫本で読めますが,私は,クレーヴスに面食らっていた頃,『SFマガジン』で読んだような気がします.有名な作品ですし,ウェブ・ページでも取り上げたことがありますので詳細はそちらに譲りますが,簡単に言えば,豊かで美しいオメラスの繁栄が,一人の幼い子供の犠牲の上に成り立っているとい寓話です.繁栄のために一人の子供が虐待されていることを市民は皆,知っている.それを知らされたとき,だれもが,悩み,苦しむが,やがて受け入れ,気に掛けないようにして繁栄を謳歌するようになる.しかし,一人でそっとオメラスから歩み去る人が,年に何人かいる・・・.
 この犠牲の子供が何を象徴しているか,受け取り方はさまざまでしょう.今日の日本なら,福島を始めとする原発のある所に住んでいる人々,あるいは沖縄の人々,あるいは,最近判決の出たアメリカ空軍基地の爆音に苦しむ人々などがまず思い浮かびます.

 さて,ここまでが長い長い前置きです.本題は,ル・グインがこの寓話を書いた時,自然が再生するために殺される王という,民族学・神話学の知見を意識していのではないだろうか,ということです.そんなことを思ったのは,天皇の退位を巡る議論を読んだときでした.

4. 天皇とオメラスの犠牲の子供
 天皇の退位(譲位?)ということには,素人の窺い知れないいろいろ難しい問題があるのでしょう.そして,日本国憲法下で,天皇の人権が大きな制約を受けているのも仕方がないのかもしれません.そういう意味では,基本的人権の認められない天皇も,また,オメラスの犠牲の子供かもしれません.
 ただ,私の感覚では,誰であれその人権を制約するのは本来はあってはならないことであり,少しずつでも,改善されるべきことです.社会全体のために一部の人の人権が制約されるのはやむを得ないかもしれません.しかし,それは痛みを持って語られるべきものだと思っていました.
 ところが,天皇の人権が制約されるのは当然というような議論をする人にそんな痛みが感じられず,戸惑いました.いったい,これは何なのだろうと.そんな主張をされている方が,自分の幸福のためには他人を平気で踏みつけにしする冷酷な利己主義者のようにも見えません.さらに,天皇への敬意が人一倍深い人のように思えます.これはいったいどうしたことだろう・・・.
 そんなことを考えているうちに,自然の再生のために殺される王という話を思い出しました.

5. 神聖な儀式としての王殺し

 自然再生のために王を殺すのは,王への怨みからでは,もちろんありません.それどころか,王殺しは神聖な儀式だったに違いありません.王を殺すことこそ,王への最大の敬意を表わすことだという意識さえあったかもしれません.
 日本は長い間農耕が中心の社会でした.したがって,天皇も農業国の王=祭司という性格が強いだろうと思われます.天皇が毎年,田植えや稲刈りをされるのも,その名残だと聞いたことがあります.そうだとすれば,自然の死と再生を象徴する面もありそうです.自然再生の儀式のために天皇が犠牲に供されたという話は聞いたことがありません.しかし,自然再生のため王を殺すことはむしろ神聖なことだという考えと響きあうものがわれわれの意識の内にあり,その名残が,天皇の人権が制約されても当然とする感覚として現れてくるのでしょうか.そう考えれば,天皇制に重きを置く人に,天皇の人権を無視するのは当然という意見が多いのも頷けます.天皇制のために天皇個人を犠牲に供することは,自然再生のために王を殺すのと同様,神聖な儀式であり,天皇への敬意の表現だからです.

6. 終わりに
 そんなことを考えているうちに,オメラスの犠牲の子供と,犠牲として殺される王とが,天皇を介して結びついてしまい,あの物語を構想するとき,ル・グインの頭の中には,犠牲の王という民族学的知見がチラチラしていたのではないかと思うようになったのですが・・・我ながら,妄想っぽいですね.
 それはともかく,やっぱり,天皇の人権は制限されて当然と主張にはどうしても馴染めません.「やむを得ない」ならばともかくも・・・.実際にどういう感じで発言されたのか知りませんが,ニュースなどの要約を聞く限りでは,すこし誇張して言えば,背筋が凍るような感じがしました.天皇の人間宣言とは,一面においては,天皇も基本的人権を持っているという宣言だろうと思っていました.人権宣言以降は,天皇に敬意を払うには,まず何よりも一個の人間として敬意を払うことが要求されていると.でも,そういう理解は間違っていたのでしょうか?
 女王が存在し,また,退位や王位継承権の放棄を認めた国もあります.現在の日本はそれができないほど不安定な国なのでしょうか? 今の天皇制は,そんなに脆弱な制度なのでしょうか? 天皇に犠牲の王の役割を強制しないと保てないような制度なら,そこから歩み去ることを本気で考えるべきではないか.そんなことを思うようになりました.

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