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言葉の花束
6.ローマの休日
2003.03.31
幾百万人もの人々が永遠の幸福を保ちうる世界が,ただ一つの前提, これらの世界の遠いはずれにいるひとりの迷える魂が, 孤独な苦しみの生涯を送らなくてはならないという, ただそれだけの条件でわれわれの前にさし出されたとしよう. ・・・[中略]・・・ そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受け取り, それを楽しむのが, いかにおぞましいことかとわれわれにさとらせるこの感情・・・
ウィリアム・ジェイムズ

アーシュラ・ル・グィンの「ゲド戦記(アースシー)」シリーズ第5巻の翻訳が出ました.『アースシーの風』(ゲド戦記 5). 普通なら,「長らく待望の」と言うところでしょうが,実は5巻目がでるなんてまったく思ってもいなかった.全3巻(1968?1972)で完結と思っていたところに1990年になった第4巻が出て,嬉しくて,でも,これが「最後の書」かと思うと読むのがもったいなくて,買った後も読まずに大事にしまっていました(はい,私は,好きなおかずは最後まで取っておくたちです).それが,第5巻がでるなんて.これで安心して第4巻が読めます?

なんてはしゃいでいると,それとジェイムズの重苦しい引用と何の関係があるのか,と訝しく思われるかもしれません.それとも,あなたもSFファンで,そんなことにはとっくにお気づきですか? そうです.ル・グィンの短篇小説,「オメラスから歩み去る人々」です. この短篇に付された作者自註にジェイムズのこの言葉が引用されているのです.

この,「ウィリアム・ジェイムズのテーマによるヴァリエーション」という副題を持つ短篇は,作者自信によって「心の神話(サイコ・ミス)」と呼ばれている散文詩風の寓話です. 「けたたましい鐘の音に驚いた燕たちが空へ飛び立つのといっしょに,ここオメラスの都,華麗な塔の立ちならぶ海のほとりに,<夏の祝祭>がおとずれる」(浅倉久志 訳)と始まるこの物語では,まずオメラスという美しい理想郷が描かれます.そして,その一切が,一人の子供の犠牲の上に成り立っていることが紹介されます.

ある薄暗い穴倉に閉じ込められた十歳くらいの子供.最初は出して欲しくて泣き叫んでいたが,いまはもう,ほとんど口もきかず,不潔な床の上にうずくまり,おびえている. オメラスの人々は皆,この子供の存在を知っている.この子供の犠牲の上にオメラスのすべてがかかっていることを.このことは,子どもたちが八歳から十二歳のあいだ,理解でそうになったときを見はからっておとなの口から説明される.

これを知った時,誰もが衝撃を受け,悩む. この子を明るい日の元に連れ出したい, 汚物で汚れたその身体を洗い清め,おなかいっぱい食べさせ,慰めてやりたい.だが,そのために,何千何万の人びとの幸福を投げ捨ててよいのか.

このパラドクスに直面したとき,子どもたちは泣きじゃくりながら家に帰ることが多い.彼らは何週間も,ときには何年も,そのことを思い悩む. しかし, 時がたつにつれて彼らは気づき始める. たとえあの子が解放さたとしても,たいして自由を謳歌できるわけではないことに. あの子の精神は,すでにあまりに傷つけられている.あまりに痴呆化していてもはや本当の喜びを知ることもないだろう.あまりにも長くおびえ苦しんだために,もはや恐怖から逃れることもできないだろう.これに気づき,それを受け入れ始めたとき, 彼らの涙は乾いてゆく.

しかし,時によると,穴倉の子どもを見に行った少年少女のうちのだれかがまったく家に帰ってこないことがある.また,時には,もっと年をとった男女のだれかが,一日二日だまりこんだあげくに,ふいと家を出ることもある.こうした人たちは一人きりで通りを歩き出す.彼らはそのまま歩きつづけ,美しい門をくぐって,オメラスの都の外に出る.それぞれに,ただ一人きりでオメラスを後にし,そして二度と帰ってこない. 彼ら,オメラスから歩み去る人々は・・・

原作(浅倉久志 訳)を自由に要約しました

現実には,私たちはオメラスから歩み去ることはできないのかもしれません. しかし,いつかオメラスから歩み去る日のことを夢見ることを止めたくはありません. 決して実現できない夢.でも,そういう夢を見つづけている人々の力によって, この世の悲惨が少しづつでも減らされてきたのではないでしょうか.

今回の題は,わざと少しはずしたものにしました.なお,冒頭の引用は,ル・グィンからの孫引きです(アーシュラ・K・ル・グィン,小尾芙佐 他訳 『風の十二方位』早川文庫,405?406頁).また,「ゲド戦記」については, 岩波書店のサイト をご覧ください.

今回この小説を読み返して心に沁みたのは, 犠牲の子どもの存在を知ったとき,何週間も,ときには何年も,そのことを思い悩むが,やがて大人になるにつれて現実的な観点からそれを受け入れるというところでした. でも,これは,以前読んだときの印象としては残っていませんでした. 私がこの小説を最初に読んだのは,多分,高校生の頃です(『風の十二方位』でこの小説に続いて収録されている「革命前夜」も同じ頃に雑誌で読んだ記憶があるので,おそらく,『早川SFマガジン』の「ヒューゴー賞」(「オメラス」)や「ネビュラ賞」(「革命前夜」)の受賞作掲載号だったのだろうと思います).高校生にとっては,この犠牲の子の存在自体が大問題だったのでしょう. しかし,今回は,自分にもそんなことを本気で悩んでいた時代があったのだと思い返し,今はそれを忘れ妥協して生きていること改めて気づかさた,ということでしょうか.「人は十歳で人生の問題のほとんどを発見するが,やがてそれを忘れてしまう」という言葉がありました(「十歳」というのは違っているかもしれません).そうなのかもしれませんね.


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