五十二段の親さまが
私に降りて わしになり
なあむあみだぶと申す親さま
(『ざんぎとかんぎ』, p.108)
「機法一体」、つまり"私と仏が一体になる"とか、“仏を見るには自分の心を見よ”とか,“阿弥陀さまが私の心に住む”などという才市さんの口あいをご紹介してきましたが,それは,私がこの娑婆世界で仏になるという意味ではありません.真宗のみ教えは,即身成仏を目指すものではありません.この世界,穢土にいる限りは私は凡夫のままです.
そんな私がどうやって,遥か高みにいらっしゃる仏さまとつながるのか.
阿弥陀さまの方から,仏になるための「五十二段」の階段を逆に降りて,私のところまで来られたというのがこの口あいです.
因みに,十字架上のキリストが「我が神,我が神,何ゆえ我を見捨てたもうや」と叫んだ(つまり,キリストがもっとも悲惨な罪人となって --- 神を見失って --- 十字架に掛かった)という聖書の記述は,「私に降りてわしになり」と似た味わいだと思っていますが違うかな?
【補足】
キリストの言葉にこだわるようですが,こちらにも書いたように,はるか昔,真宗系を名乗るある学生サークルが,この言葉を引用して、キリスト教ではだめだと聖書自体に書いてあると言っていました.何か違うという感じがして,そのサークルから心が離れる一因になりました.「十字架は、神と人との間に横たわる深淵にかけられた橋である」という言葉を聞いて感動したのは,それより後だったか前だったか・・・.