こころ ころころ ころころで
六字のなかで こころころころ
これでたのしみ なむあみだぶつ
(才市さん,『ご恩』, p.89)
紅白歌合戦はご覧になりましたか.私はきちんと見ていなかったのですが,西野カナさんが『トリセツ』を歌っていたそうですね.
西野カナ『あなたの好きなところ』については先日触れましたが,西野カナと最初に出会ったのはこの『トリセツ』でした.どこかに一部が引用されていて,可愛らしくて,なんとなく心楽しく幸せな気分になれる詩だなと思いました.歌詞だと知ったのは少し後ですが,歌も軽快で無邪気,楽しい感じです.『関白宣言』とかいう歌が,“上から目線”に終始した挙句,最後に「さぁ,泣け」って調子でメロメロ,ベトベトになるのと好対照です.
しかし,ネット上には否定的な意見がたくさんあるようです.“私が浮気しても笑って許してねって言い出すんじゃないか,ムカつく”などと.そういう感想も分からないでもありません.この歌詞のようなことを実際に面と向かって言われたらムッとするような気もします.
でも,この詩を読んだり歌を聞いたりする限りでは,むしろ無邪気で可愛らしい女性の姿が思い浮かび,なんとなく嬉しく楽しい気分になります.なぜでしょう? それが詩や音楽の力だから,醜いものの中にさえ美を見出すのが芸術なのだから・・・なんてもっともらしい一般論に逃げずに,その理由を考えていて,二つのことが思い出されました.
一つは,ある小説の末尾近く,語り手(「薫クン」)の独白です.
ぼくは海のような男になろう,あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に.その中では,この由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を怖れたりなんかしないで,無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような,そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう.
(『赤頭巾ちゃん気をつけて』, p.149).
『トリセツ』の歌を聞いていると,「あなたは,薫クンが理想とする,海のように心の広い人.だから,私をその海の中で泳がせて」と甘えられているような気分になる.つまり,自分が理想の男 --- 実際にはなれなかった理想の男 --- であるかのような幻想に浸れるので,気分がいい・・・.
そしてもう一つが,冒頭に引用した才市さんの口あいです.連想がちょっと突飛すぎますか.でも,「こんな私だけど笑って頷いて」と言ったら「うん」と優しく微笑んで頷いてくれた,そんな相手に出会ったときの喜びと安心感は,この口あいの喜びと安心感と似ているような気がします.私の心がどんなにコロコロ転がっても,決して六字の中,つまり阿弥陀様の働きの中からこぼれ落ちることはない.決して見捨てられず,いつもしっかりと抱きとめてもらえるという安心感.だから,才市さんは心がコロコロころがっても何の不安もなく,『トリセツ』では,呆れて嫌われるという不安なしに好き勝手を言っている・・・.
この口あいは,「こころ ころころ」なんて語呂合わせを言ったりして,少しはしゃいでいるような感じがします.否定的な内省の歌になりそうなところを,明るく屈託なく歌っているところも『トリセツ』の歌の感じに似ているように思いますが,いかがですか.
【補足】
才市さん,『ご恩』, p.89:石見の才市顕彰会編『ご恩うれしや』.
『赤頭巾ちゃん気をつけて』, p.149: 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中公文庫, 1973).
『トリセツ』はたとえばこちらを(歌詞付).今読み直してみましたけど,これ,要するに「あなたのこと好きだから,私のことをずっと好きでいてね」って歌ですね.そんなこと言われたら嬉しいのは当たり前.上のクダクダは余計な議論のような気がしてきました・・・.
『トリセツ』の男性版を作った人がいるそうです.一読,膝を打って頷き,「なんかもうイロイロすまん」に手を打って大笑い・・・.でも,最後の一節は受け取り方が別れそうです.
これからもどうぞよろしく、とはさすがに言えない。/こんな俺を笑って許すのは難しいと理解している。/だらか、ずっと大切にしなくてもいい。/実際、永久保証って訳にもいかないし。お互いに。
本当にそう思っているのか,あるいは,「なんかもうイロイロすまん」と言った手前,こう言うしかないのだけど,本当は・・・ということなのか.どちらでしょう?
新年早々,おバカな話で失礼しました.