わしとあなたは 海の水
煩悩の真水は入れど みな塩で
これが不思議 なむあみだぶつ
(才市さん, 『慚愧と歓喜』, p.113)
降りしきれ雨よ
すべて許し合う者のために
また許し合えぬ者のために
(「水のいのち」)
一読,いい詩だなぁと思うと同時に,いくつかのことが連想されました.その一つが,「誰がために鐘は鳴る」.「・・・のために」という言葉から,というより,次の一節への連想です.
いかなる者も、孤立した島ではない。
全ての人間は、大陸の一片であり、
大きなものの一部である
(ジョン・ダン)
降りしきる雨がすべての者を包み込むように,海も孤立している島々を包み込む・・・
しかし,よく考えると,これは海の意味がダンの喩とは逆になっています.ダンの文章では,海(海水)は,島々を隔てるものでしょう.それを私は,島々を包み込み,一つに繋ぐものと受け取っています.
否定的な比喩としての海・海水と肯定的な比喩としての海.仏教でも,「海」を否定的・肯定的両方の喩に使います.たとえば,「苦海を渡る」などと言う場合は否定的な喩です.才市さんにも海の水を否定的な喩につかった,こんな口あいがります.
わしの心は海の水
変えられもせぬ
波風が吹く
慚愧歓喜が
(才市さん,鈴木-6:62)
一方,肯定的な喩としては,たとえば,『正信偈』の一節.
凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
凡夫も聖者も、五逆・謗法の極悪人も、本願の智慧海に入れば、
海に流れ込んだ川の水が同じ塩味に変わるように、仏心に転換する。
ここでは,海はすべてを包み込むものです.そして,「塩」も肯定的な意味で用いられています.最初に掲げた才市さんの口あいは,『正信偈』のこの部分を念頭においているのではないかと思われます.
さて,最初に引用した「水のいのち」は,5曲からなる組曲で,かなり有名な合唱曲だそうです.私が教えてもらったのは,第1曲「雨」の一節でした.
この歌の第2曲では,雨が「みずたまり」になり,第3曲では「川」となって流れてゆきます.
空の高みにこがれるいのち
・・・
だが やはり 下へ下へと
ゆくほかはない 川の流れ
そして,第4曲「海」に流れ込み,第5曲「海よ」で,
ありとある 芥
よごれ 疲れ果てた水
受け容れて
すべて 受け容れて
つねに 新しくよみがえる
海の 不可思議
これは,『正信偈』や才市さんの口あいの海と同じです.そして,水は空へと昇っていく.
おお 空へ
空の高みへの 始まりなのだ
のぼれ のぼりゆけ
そなた 水のこがれ
そなた 水のいのちよ
のぼれ のぼりゆけ
みえない つばさ
いちずな つばさ あるかぎり
のぼれ のぼりゆけ
下へ下へと下流に向かって下るしかなかった水が,海に入って空の高みへと昇っていく.つまり,本願の智慧海に入ることによって,お浄土に往生し,いのちが成就する・・・というのはちょっと牽強付会に過ぎるでしょうか?
付会ついでに,
雲となり
また ふたたび降るとしても
とは還相廻向のことだ・・・
【補足】
才市さん, 『慚愧と歓喜』, p.113:才市顕彰会編『慚愧と歓喜』
才市さん,鈴木-6:62: 鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート6の62番(p.83).
才市さんの口あいは用字,改行などを読みやすく改めました.
『水のいのち』:高野喜久雄 作詞, 髙田三郎 作曲, 1964.https://www.youtube.com/watch?v=GrjnCegkYCo など.
「誰がために鐘はなる」:http://www.edit.ne.jp/~ham/yomoyama/donne.html .もともとは,病気の際にかかれた「瞑想」第17番の一部だそうです.「いかなる者も,孤立した島ではない.何人も大陸の一片であり,全体の一部である.・・・故に問うなかれ.誰がために弔いの鐘はなるのかと.そは汝のためなり」