かかさんよい
煩悩が 連ろうて遊んでごせ(一緒に遊んでくれ)言うが
どがあ(どう)しましょうかいな
お 連ろうて遊べよ
どがあ言うて 遊びましょうかいな
念仏申して 連ろうて遊べよ
(『ご恩うれしや』, p.114 )
三河のお園さんにこんな歌があるそうです.
1) 疑いよここききわけていんでたも そちがいるゆえ信が得られぬ
2) 疑いにここをのけとは無理なこと むねをはなれて何処に行きましょ
3) 疑いよ是非行かぬならそこに居《い》よ そちにかまわず信を取るべし
4) 疑いは何処に居《お》るかと問うたれば かわりに出て来る念仏の声
この歌は,「疑い」を「煩悩」に置き換えると分かりやすいかもしれません.
1) 厳しい修行で煩悩を滅し,覚りを目指す・・・.だから,覚りの邪魔になる煩悩よ,早く消えてくれ.信心を邪魔する疑いよ,どこかへ行ってくれ・・・.
2) でも,煩悩は私の本性だ.追い払ったようでも,すぐ私の地がでてしまう.煩悩を滅し難いこと,私を離れて煩悩はないさえ言える.それを無理やり押さえこもうとすると,余計に苦しい.
4) さて,煩悩はどこにいったのかな.ああ,南無阿弥陀さまがしっかりと抱きとってくださっている.阿弥陀様と一緒にいる・・・.
この歌は,(とくに後の二つが)才市さんの上の口あいとほとんど同じ味わいです.第3歌と「(煩悩を)連ろうて遊べ」,第4歌と,「念仏申して・・・遊べ」.
源信和尚の「妄念はもとより凡夫の地体なり。・・・妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし」というお言葉も,このことを教えてくださっていると聞かせて頂いています.
余談ですが聖書に,「右手が良いことをするのを左手に知らせるな」という意味の言葉があると聞いて,同じような意味かと思いました(右=善,左=悪という旧来の見方に基づいていると想定).でも,聖書では,まったく別の意味で言われているようでした.
【補足】
才市『ご恩うれしや』:石見の才市顕彰会編『ご恩うれしや』
お園さんの歌:川井学 絵『田原のお園』(難波別院, 2014), p.31.引用に際して 1) -- 4) の番号を仮に打ちました.
源信和尚:「横川法語」より.テキストは,こちらから引用しました.西本願寺の『注釈版聖典』(初版)所収テキストは少し違っているようです.
聖書:マタイ6:3