さて,真宗では,お盆にあの世から霊が帰ってくるとは言いません.そのため,真宗の寺に育った私は,マスコミなどでよく取り上げられる「お盆の行事」,たとえば,迎え火,精霊棚,送り火などとは,ほとんど無縁で過ごしてきました.キュウリやナスで作った馬や牛も,話に聞いたり写真を見たりしたことはありましたが,実物を見たのはかなり後になってからです.
そのときお聞きしたことですが,キュウリの馬はあの世から少しでも早く帰ってくるように,ナスの牛はあの世に戻るのが少しでも遅くなるためにという気持ちを込めて準備するのだそうです(Wikipediaを見たら,牛には,お土産をたくさん積めるようにという意味もあるそうです).
もちろん,真宗ではこんなことはいいません.でも,先立たれた人に対するこのような気持ちを“間違いだ”と一刀のもとに切り捨てたり,“迷信だ”と嘲笑ったりするのも心ないことだと思います.このような気持ちの底にある,先立たれた人に対する追慕と感謝の念は尊ばれるべきものではないでしょうか.
才市さんは阿弥陀さまを親に喩えます.これは才市さんに限ったことではなく,真宗ではよく使われる喩えです.
でも,現実の親の愛がいつも阿弥陀さまの慈悲と同じように完全なものであるわけではありません.自分の子供を虐待したという痛ましい事件がときどき報じられます.そこまでいかなくても,親の「愛情」がかえって子供を傷付け苦しめるというのはよく聞く話です.
しかし,そのような不完全な親の愛情から純粋な部分だけを取り出して,それを,阿弥陀さまのお慈悲の比喩に使います.そして,それを聞かせていただく私たちも,親に対する様々な気持ちの中にある(あった?)絶対的な信頼と,それがいかに大切なものか,あるいは,それをどれだけ求めているかに改めて気づかされ,それを手がかりに阿弥陀さまへの思いが育まれていきます.
ご先祖のためにキュウリやナスで馬や牛を作るのも似たようなことだと思います.真宗の立場から言えば,このような習慣は意味のないものです.しかし,このような習慣の底にある,先立たれた人に対する追慕と感謝の念という点においては,真宗ではない方とも,共感し合い,お話ができるように思いますが,いかがでしょうか.