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[才市] わたしぁ あなたの心もろうて
旧ブログ 2015年6月28日 (日)

わたしや あなたのこころもろをて
なむあみだぶつ。
(楠三 06:097)

 先日,フロムの本を読んでいたら,「愛とは愛を生む力」であるという言葉に出会いました.これを読んで,阿闍世王の話を連想しました.

 父親を殺した罪悪感に苦しみ,地獄への恐怖に恐れ慄く阿闍世王に対し,お釈迦様は,阿闍世王が救われない限り自分も涅槃に入らないと語りかけます.
 でも,どうなのでしょう.あれほど冷酷なことをした阿闍世王が苦しむのは当たり前,自業自得じゃないの,なんて気がしないでもありません.はやりの言葉を使うと「自己責任」.
 それに,罪悪感に苦しむといっても,結局は,自分が苦しいのは嫌だ,地獄へ落ちるのが怖いということです.つまり,自己中心的な考えはそのまま.そんな阿闍世王がお釈迦様の話を聞いて心が洗われ,すがすがしい気持ちになれたとしたら・・・.これでは,お釈迦様は清涼飲料水代わりですし,そんなに簡単に救われてしまったら,阿闍世に殺された方はたまらない,という気もします.
 しかし,お釈迦様の慈悲はそんなものではありませんでした.お釈迦様の慈悲に満たされた阿闍世王は,やがて,人々を救うためなら自分は阿鼻地獄に落ちてもよいと言うまでに至ります.この言葉を聞くと,本当の救いとはどういうものか,おぼろげながら感じることができます.そして,阿闍世王のこの言葉は,お釈迦様の言葉(阿闍世王が救われない限り自分も涅槃に入らない)にきれいに照応しています.つまり,お釈迦様の慈悲が,阿闍世王の心の中に慈悲の心を生み,それによって本当の救いがもたらされたのでした.

 さて,才市さんは,“わたしはあなた(阿弥陀様)の心をもらって”と歌っています.同じような言い方をしている口あいが他にもあり,それらを見ると,才市さんはこの言葉で,“いつも阿弥陀様と一緒”であることを喜んでいるようです.しかし,才市さんには,お浄土で(阿弥陀様と同じように)衆生済度をさせていただくことを喜んでいる口あいもたくさんあります.そのことを考えれば,“わたしはあなた(阿弥陀様)の心をもらって”とは,阿弥陀様の慈悲によって私の心の中にも阿弥陀様と同じような慈悲の心が芽生えたことを喜んでいると受け取ってもそれほど的外れではないような気がします.もちろん,この娑婆世界で,その慈悲を貫き通すことはできないとしても.

【補足】
 楠三 06:097: 楠恭編『妙好人才市の歌 全』の三, 第6ノート, 67番(p.157)
 フロムの言葉: エーリッヒ・フロム/鈴木 晶 訳『愛するということ』(紀伊国屋書店, 新訳版:1991, 2014), p.46.
 阿闍世王の言葉:『浄土真宗聖典 注釈版』 p.287. この話は以前にも触れたことがありますが,そこで掲げた次の本をもう一度掲げておきます.鍋島直樹『アジャセ王の救い』(方丈堂出版, 2004年).

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