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鶴見俊輔の「斎藤アラスカ久三郎」の話
旧ブログ 2015年7月25日 (土)

 高校の頃,国語の教科書に鶴見俊輔「字引について」という文章が載っていました.その中で紹介されていた,「斎藤アラスカ久三郎」という人の話を今でも印象深く覚えています.次のような話でした.

第二次大戦中,アメリカの日本人収容所に入れられていた時のこと.その収容所には,「斎藤アラスカ久三郎」と呼ばれている人がいた.この人は小学校を出ただけで,英語もあまりよくできはしなかったが,ことばを確実に使って議論をする人だった.その彼が,あるとき「××さんは実にインターナショナルな人だ」と言った.すると,「インターナショナルってどういうこと? 斎藤さん」と,ややからかいぎみで聞いた人がいる.それに対してアラスカ久三郎はこう答えた.「胸幅の広い人っていうことだな.世界のことをゆっくり見わたして考えられる人のことだ.」(以上,要旨)

わたしは,定義の術の名人に会ったような気がした[略].はっきりと考え,はっきりと自分の考えを述べることができる人だ.([略]は引用者による省略.他は鶴見の原文通り)

 朝日新聞では,鶴見俊輔氏の死去を報じた記事のすぐ下に「折々のことば」があり,この日は次の言葉が紹介されていました.

一枚の布の尖端がほころびはじめて,その織り目の細い一本の繊維が風に揺らぐような場所から,言葉が生み出される(佐々木幹郎)

 ありきたりの言葉によって織りなされた見慣れた布.ありきたりの言葉を連ねれば,だれもがその布を思い浮かべ,良く知っている布だと安心する.でも,その布の端っこでは,ほつれた繊維が揺らぐように言葉がゆらいでいる.まだ言葉で覆いつくされていない場所へ伸びて行こうと,はっきりとした定義を求めて,もがきながら・・・.

 「斎藤アラスカ久三郎」の逸話は,はっきりと定義された言葉を使って議論するという話です.一方,「折々のことば」は,言葉の意味がほころんでいる場所の話です.この二つは,一見,正反対の話のようです.でも,手垢のついた出来合いの言葉を意味も曖昧なままに使うのではなく,言葉の意味を生み出そうとする点で,通じ合う話のように感じました.

 手垢のついた言葉を適当につなぎ合わせると,いかにももっともらしいことが言えます.そこで,つい,空疎な言葉を連ねて自己満足に陥る.いっぱしのことを言ったような気になって・・・.そんなことをしている自分に気付くたびに,この「斎藤アラスカ久三郎」の話を思い出します.今使った言葉に,はっきりとした定義を与えることができるか,と.

【補足】
 鶴見俊輔「字引について」が載っていた高校教科書は,『現代国語 1 二訂版』(筑摩書房, 1971).黄色いクロース装の本です.クロース装の教科書って,小学校から高校までを通じて,この筑摩の国語の教科書(高1~高3で計3冊)だけだったような気がします.
 「折々のことば」(鷲田清一)は,『朝日新聞』2015年7月24日付より.この4月から連載が始まった「折々のことば」は,その時々の話題・論点とかかわっているような,そうでないような微妙な感じがあって,どこまでが鷲田氏の意図なのだろうと(下司の勘繰りをしながら?)面白く読んでいます.なお,余談ですが,このコラム,以前の「折々の歌」と違って,通し番号と日付が小さく入っています.ちょっとした工夫ですが,切り抜きには便利.

 ところで,「グローバル」の定義ってどうなるのでしょうね.使いたくない言葉の筆頭ですが.

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