わしの悪事が みな見える
地獄も見える 極楽も
見えるはずよの 六字の鏡
これが他力の なむあみだぶつ
他力鏡は よい鏡
さきの楽しみ なむあみだぶつ
(『ざんぎとかんぎ』, p.118)
阿弥陀さまは私のところまで降りてきて,私と一体となってくださいますが,だからといって,私と‘同じ穴のムジナ’になってしまうわけではありません.私の内側から私に働きかけてくだいます.
では,その働きとは具体的にどういうことでしょうか.これについて,少し長くなりますが,梯實圓和上の文章を引用します.
この穢土《えど》に生きている限りは煩悩具足の凡夫であり続けます.しかし,本願を信じ,念仏するようになった者の心には大きな転換が起こります.それは煩悩のかたまりのような自分を心の主《あるじ》とし,煩悩に仕えるような生き方をしていることの過《あやま》ちをしらされ,如来の顕《あら》われである念仏こそ真実の主《あるじ》であり,そのみ言葉こそ「まこと」であると受け容れる心の耳が開かれた人だからです.これからは,「念仏を心の主《あるじ》とし,煩悩を心の客人《まろうど》」とみなして,如来のみ教えに導かれながら,浄土への旅を続けようと志すことになります.
(梯, p.230)
「うぬぼれ鏡」というのがあるそうですが,それに対し,「六字の鏡」は,私の本当の姿,つまり,「煩悩に仕えるような生き方をし」,地獄に住んでいるのに等しい姿をはっきりと知らせる鏡です.と同時に,極楽の姿をも見せ,あるべき姿を知らせる鏡です.そこに写し出された自分とお浄土の姿にうなずくことが,「念仏を心の主《あるじ》と」することでしょう.あるべき姿の実現は,この穢土では不可能であるとしても・・・.
【補足】
梯: 梯實圓『親鸞聖人の教え・問答集』(大法輪閣, 2010).《 》内は原文ではルビ.
「うぬぼれ鏡」: ‘実際より美しく見え,己惚れを満足させる鏡’という意味で使いましたが,和鏡に対してガラスでできた洋式の鏡を江戸時代にこう呼んだそうです.しかし,いっそう鮮明に映る鏡を「うぬぼれ鏡」と呼ぶなんて,それこそ,己惚れの極み?