さいちや ほとけが みたいなら
こころを みいよ[見よ]
機法一体 なむあみだぶつ
これが さいちが おやさまよ
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, p.64)
「こんにゃく問答」という落語を聞かれたことがおありでしょうか.NHKの「落語でブッダ」シリーズでも演じていました.禅寺の住職に化けたこんにゃく屋さんの六兵衛に,旅の禅僧が「禅問答」を仕掛けたけれど,六兵衛の答に恐れ入って逃げ出したという話です.もし六兵衛が禅問答に負けたら,追い出されて,旅の禅僧が住職に収まるところだったのですが,なぜ偽物和尚の六兵衛が本物の禅僧に勝てたのでしょうか?
最初,何を聞いても六兵衛が黙っているので,無言の行の最中ということになって,身振り手振りで禅僧が問を発し,六兵衛がそれに身振り手振りで答えます.その「禅問答」は次の通り.なお,( )内が,禅僧の問と,六兵衛の答と禅僧が思ったことです.
問1:おや指とひとさし指とで円を作る(日の本は)
答1:両手で大きな輪をつくる(大海のごとし)問2:両手をひろげて十本の指を出す(十方世界は)
答2:片手をを広げて五本の指を出す(五戒で保つ)問3:指を三本出す(三尊の弥陀は)
答3:ひとさし指を目の下へ(目の下にあり)
これ見て,禅僧はかなわないと逃げ出したわけです.
一方,六兵衛は,最初の問を見て,相手が自分の本当の商売を知っていて嫌味を言ってきたと思い,次のような受け答えをしたつもりでした.
問1:てめえのところのこんにゃくはこんなに小さかろ
答2:いや,こんなに大きい問2:十丁でいくらだ
答2:五百だ問3:高えから三百に負けろ
答3:いやなこった,赤んべえ
なかなか愉快な落語で私の好きな演目の一つですが,「ほとけが見たいなら心を見よ」で,この落語の,「三尊の弥陀は目の下にあり」を連想しました.もっとも,禅問答の方は,自分の内に本来備わる仏性に目覚めよ,という意味なのでしょうが(?),才市さんの方は,仏さまは常に自分と一緒にいてくださり,仏さまの働きが私の心を満たしている,という意味なので,そのあたりが少し違っていますが.
なお,「落語でブッダ」では,問1を「ご胸中は」とし,問3の「目の下にあり」を「仏道はどこか遠くではなく,すぐ足元をある」という意味だと説明し,さらに,禅問答の内容は実はそれほど問題ではなく,それによって何を学ぶかが大切であり,本物の禅僧はこの禅問答でいっそう仏道に励むよい機会を得た,何事からも学ぶ姿勢が大切だ,とこの落語を味わっていました.
【補足】
こんにゃく問答は『古典落語』(下), 編集・発行 グーテンベルク21(著作権者 今村信雄、グーテンベルク21, 2002)の電子テキストによりました.
この落語のことを最初に知ったのは,話が通じていることはどうすれば確認できるかということについてのどなたかのエッセイでした.話が通じていることを確認するのは実は非常にむつかしい.「つじつま論」,つまり,こちらの言ったことに対して相手がつじつまの合った答を返してくれば話は通じている,と言えそうだが,これも確かな根拠にはならない.その例がこんにゃく問答だ・・・というような話だったと思います.