知ることも 信ずることも 過去の種
過去に種を 植えられて
今に生えたが なむあみだぶつ
(楠, 二, p.208)
“今,私が阿弥陀さまの願いを知り,それを信じるようになったのも,過去の種によるものだ.でも,その種は,阿弥陀様が種を植えてくださったもので,それが今生えてきたのが,私の称えるなむあみだぶつである”,という意味でしょう.
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
( 『注釈版』, p.132)
という,親鸞聖人のお言葉を連想しました.
この親鸞聖人のお言葉ですが,「親の因果が子に報い」などいう言い方に耳慣れていると,つい,誤解してしまいそうな気がします.“信心を得ている人は過去の行いが良かった人,一方,今,信心が得られず苦しむのは前世での行いが悪かったから.だから,来世では信心を得て救われるよう今,頑張って功徳を積もう”などと.
でも,「宿縁」というのは,私が積んだ功徳ではなく,阿弥陀さまの働きかけのことですね.そこのところを才市さんは「植えられて」と歌ったのでした.
【補足】
楠, 二, p.208: 楠恭編『妙好人才市の歌 全』の二, p.208(二の第8ノート, 25番).
『注釈板』, p.132: 『浄土真宗聖典 注釈板』, p.132.
現代語訳は
思いがけず,この真実の行と真実の信を得たなら,遠く過去からの因縁をよろこべ.
(『顕浄土真実教行証文類(現代語訳)』(本願寺出版, 2000), p.5)
なお,『浄土文類聚鈔』には,
たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ
とあって(『注釈版』, p.484),ご法話などでは,こちらを引用させていただくことがあります.「行信」より「信心」の方が,耳で聞いて分かりやすいかな,と.
そもそも親鸞聖人のお言葉は,“行信を獲てみれば,それは阿弥陀さまのお育ての結果であった” と慶ぶものですね.“結果的に慶ぶ” というとちょっと意味がづれるかも知れませんが,以前ご紹介した「過去的にわかる」という話と繋がっているような気がします.その辺を無視すると上のような誤解も出てくるような気がしますが,いかがでしょうか.