弥陀の樋
弥陀の尊い 弥陀の樋
知識 口から私の心
かけてもろたよ 六字の樋を
浄土の水の 味のうまさを
わしの心 つぎ込まれ
ご恩うれしや 南無阿弥陀仏
(楠, 一, p.6)
子供の頃,山(というより雑木林の丘)で遊んでいるとき,斜面を下る小さな流れに竹の樋が掛けてあり,そこから人家の方に水が引かれているのを見ことがあります.小学校にも,普通の水道の他に,裏山から引いた「山水(やまみず)」が出る蛇口がありました.その校舎はとうになくなりましたが,現在でも,上水道の有無にかかわらず,山水を引いておられるお家やお寺があります.
才市さんの家は,結婚当時の借家も,晩年の自宅も,裏山から樋で水を引けるような場所ではありません.でも,樋を掛けて水を引くというのは,才市さんにとっても,生活に密着した実感のこもった喩えだったのではないでしょうか.
井戸まで水を汲みに行くのは,仮に僅かな距離であっても結構手間だったと思われますが,そこへ樋を引くと,何もしなくても勝手に水が流れてくる.同じように,ご法話を聴聞するとき,阿弥陀様のみ教えと南無阿弥陀仏の徳とが,向こうからわたしの中に流れ込んでくる.善知識(先生)の口から私の心に南無阿弥陀仏の樋を掛けてもらったから・・・.
前回は,「南無阿弥陀仏の橋」でしたが,「橋」というと,十字架を連想してしまうので,個人的には,南無阿弥陀仏には「樋」の方がしっくりします.ついでながら,「弥陀の尊い 弥陀の樋」は,実際には「みだのとをとい みだのとい」と記されているようです.聞いても見ても語呂があっていますね.やっぱりこっちの方がいいなぁ・・・.
【補足】
楠, 一, p.6:楠恭編『妙好人才市の歌 全』の一, p.6(一の第1ノート, 20番).