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[才市] 南無阿弥陀仏の橋がかけてある
旧ブログ 2011年11月12日 (土)

生死の苦海 渡ること
なむあみだぶの橋がかけてある
私ゃ なむあみだぶの上におる
(『ご恩うれしや』,  p.247)

 生死の苦海は,自分の力ではとても渡れない.そこで,阿弥陀様は「南無阿弥陀仏」の橋をかけてくださった.苦海に沈むはずであった私は,今,その橋を渡っている・・・という意味ですね.

 “十字架は,神と人間との間に横たわる深淵に掛けられた橋である”という話を聞いて,よその宗教のことながら,感動したことがあります.そのため,「橋」というとキリスト教を思い浮かべてしまいます.そんな理由で,才市さんのこの口あいを非常におもしろく感じました.
 苦海を渡るといえば,普通は船が出てきそうな気がしますが,橋も喩えとして用いられることがあるのでしょうか.才市さんはそんなご法話を聞いたのでしょうか.橋の喩えをご存知の方は是非ご教示ください.
 なお,才市さんの家と当山との間には小さな川があり,そこに橋が掛かっています.ほんの数メートルの短い橋ですが,その割りに高く,また,すぐ横に海が広がっていますので,いかにも橋を渡るという感じがします.また,夕方などに近くの方が欄干に腰を掛け,行きかう人と挨拶をかわすという光景も時折みかけます.橋といえば,わたしは真っ先にこの小さな橋が思い浮かびますが,この口あいを詠んだとき,才市さんはどんな橋を思い浮かべていたのでしょうか.

【補足】
 “十字架という橋”について検索してみたところ,あるサイトにおおよそ次のような説明がありました(要約し,多少改変しました).なお,これがキリスト教として正しい説明なのかどうか,一般に認められている説明かどうかなどについては,一切関知しませんのであしからず.

 聖なる神と有罪な人間との間には広大な深淵が置かれている.
 その深淵に,人間は「人格」という橋をかけようとする.人格が高潔で堅固であるなら,神の御前に出ることを許されるであろうと推論する.しかし,そのような橋は天国の門に達するためにははるかに短い.あるいは,善い行いという橋をかけようと試みる.彼が自分の善やあわれみや愛の行いによって救われるであろうと考える.しかし,その橋は罪人が天国に行くまでその重荷に耐えていることが出来ない.神に到達するために人間によってなされるあらゆる方策は無益であり不十分であり無力である.人間が掛ける橋はすべて失敗に終わる.
 そこに神が介入されて,信仰だけによる義認の橋をかけて下さった.十字架に対する信仰による義認だけが罪ある人間を神のふところと家に帰らせる唯一の道である.自己の義の業によらず十字架信仰による以外に救いはない.

コメント

橋ですか・・・芥川の 蜘蛛の糸 が頭に浮かびました。頼りない蜘蛛の糸
でなく橋が与えられたならば カンダタ も後に続く人たちを蹴落とすことも
無かったでしょうね。親鸞上人も和讚で 船 とか 筏 は言われていますが橋はないような気がします。船や筏は定員がありますので蜘蛛の糸と同じですが、橋ならば順番に渡ればいくらでも渡れます。
補足を読ませていただいて、日頃私の尊敬する先生が「真宗と浄土宗は似ているようで違うが、真宗とキリスト教は言葉を尽くして教えを伝える点でよく似ていいる」と言われていますが、教えの点でも似ていますね。その先生にこのブログを紹介させていただきました。
そうそう、私の心と体を煩わせていた事柄がどうにか一段落をむかえましたので、再起いたしますので、これからも宜しくお願いします。

こんばんは.詳しい事情は分かりませんけど,再起されてなによりです.

やっぱり橋の喩えは珍しいのでしょうか? 次回は樋の喩えの予定です.

キリスト教については,自分に分かる部分,共感できる部分だけつまみ食いしている可能性があります.阿弥陀さまのみ教えにこんな態度で接するのは言語道断ですが,ま,他の宗教については大目に見てください.

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