なむあみだぶを きくのには
耳のあなで きくがよい
浄土から 六字の樋がかけてある
(鈴木, p.254)
前回に続いて樋の喩えです.前回の口あいには,「知識 口から私の心 かけてもろたよ 六字の樋を」という言葉がありましたので,“お聴聞をしているとき,ご講師様から私の心に樋がかかる”としました.でも,この樋は,お浄土から(阿弥陀様から)私の耳に,いつも掛かっている樋ですね.
ところで,前回は,「樋」を“仏様と私を繋ぐもの”と味わいました.「橋」と同じように,仏と凡夫の間に横たわる深淵にかけられたものという意味です.でも,「樋」には,もう一つ別の味わいがありますね.それは,樋を使うと,水が向こうから一方的に流れてくるということです.頑張って水を汲み上る必要はない.その点で耳の働きと同じです.目で見る場合は,見たいものの方に視線を飛ばしますが,耳には情報が一方的に流れ込んで来きます.
樋を通じて水が流れてくるように,「南無阿弥陀仏」が向こうから一方的に私の耳に流れ込み,私の口から溢れ出る・・・.
楽しみは 向こうから
呼ばれて楽しむ
お慈悲から
(鈴木, p.254)
【補足】
鈴木, p.254:鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, p.254(「第16ノート」の98番と99番).この二つの口あいは,才市さんのノートでは続けて記されています.一つの口あいとして味わうこともできますね.