こころ ころころ ころころで
六字のなかで こころ ころころ
これでたのしみ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, p.89)
お盆の話の続きを書くつもりだったのですが,どうもまとまりませんので,信心漬物説まで戻って,その続き,信心ダルマ説(?)について.ダルマと言っても,達磨大師ではなく,オキアガリコボシの方ですが.
ずっと以前のことですが,TVでこんな漫才をやってました.
お嬢さんと結婚させてください.
ダメだ.どうせ遺産目当てだろう.
違います.お嬢さんを愛してるからです.お金なんかいりません.
じゃ,一千万やるからあきらめろ.
・・・・・.いや,お金なんていりません.結婚させてください.
あ,いま,一瞬迷ったな! やっぱり金目当てだ.
ち,ちがいます!
(以下,ドタバタ)
うまく再現できませんでしたが,いかがでしょうか.これを聞いたとき,逆ではないかと感じました.間髪入れずにノーと返事をした方がむしろ信用できない,即座の返事は,一時の熱狂による返事,あるいは,最初からたくらんで準備していた返事ではないかと.ちょっとひねくれていますか?
でも,こんな話を聞いたことがあります.
大岡越前が殿様から,この世の真実なるものと嘘なるものを形で目の前に示せと命じられ,越前が翌日殿様の御前に差し出したのが,コマとダルマだったそうです.つまり,コマは最初は勢いよく立っているが,やがてふらついて倒れてしまう,これが嘘の姿.一方,ダルマはゆらゆら揺れていても,最後は真っ直ぐ立って止まる,これが真実なるもの の姿というわけでありました.
取調べのとき,嘘をついている人の姿と,本当のことを言おうとしている人の姿と受け取ればよくわかるような気がします.
嘘をついている人は,最初からどう嘘をつくか考えているので,作ったシナリオ通りにペラペラ調子よくしゃべっている.でも,所詮は頭の中で考えたこと.事実の根っこがないものだから,あっちこっち勢い良く飛び回っている間に,つじつまが合わなくなって自滅してしまいます.
それに対し,記憶に忠実であろうとすると,かえって言いよどむ.記憶なんていい加減なものです.ああだったけ,いや,こうだったけ,とフラフラする.でも,事実の根っこがある限り,とんでもない方に飛んで行ったりはしません.最後には,事実へと収束する,ということでしょう.
わたしたちの「こころ」は,ほんとうに当てにならない.でも,「六字(信心)」の中にいるから,いくらコロコロころがっても,落ちる心配はない.そう気づかされたとき,フラフラ揺れつつも,そんな心を笑い,「これでたのしみ」と言う余裕も生まれるのではないでしょうか.
【補足】
漫才:どなたが演じていたかまったく覚えていません.セリフも,だいたいこんな内容だった,程度です.
大岡越前の話:こちらからお借りしました.巡礼の途中で(?),あるお寺でお聞きになった話だそうです.
ほんとに 心 ほど ころころと変わるものはありませんね。
高田慈昭さんと座談で話した折に、「正信偈に必という字がたくさん出てきますね」と気になっていたことを話した時に「ころころ定まらない 心 に一本釘を刺した のが 必 という字ですね」と教えていただきました。
だるまさんのように重心点に念仏を置いておきたいものです。