なつかしや 京都の国は なつかしや
これは 浄土の一の門
なむあみだぶの 門の入口 京都の味わいなつかしや 越後の国は なつかしや
これは 浄土の二の門で
なむあみだぶの 門の入口 越後の国の味わい信濃の国は よい国で
しのもんのあるくにで
しなれのもんのいきるくに
あむあみだぶに 入らす 門の口 信濃の国の味わい石見の国は よい国で
才市に向こうてくださる慈悲が
弥陀の門
なむあみだぶの門の入口石州小浜は よいところ
知識にあわせて 弥陀を聞く
なむあみだぶの 門に入らせて 安楽寺の味わい
(楠 一, pp.197 -- 199)
親鸞聖人の大遠忌で京都に行かれた際,親鸞聖人の御旧跡巡りをされた方も多いのではないでしょうか.才市さんも京都から越後へと足を伸ばしたようです.
上の五つの口あいは,ノートに連続して記されています.4番目を除くそれぞれに詞書き(って言っていいのかな?)が付けられていますので,一つ一つ独立した口あいなのでしょう.でも,1番から5番までの連作としても読めますね.
1番から3番は,親鸞聖人のご苦労も,結局は才市を南無阿弥陀仏へと導くためのものであったと御旧跡を偲び,3,4番では転じて,そのおかげで,才市はここ小浜の地でお浄土の門に入らせていただいた,と結ばれています.ずっと「門の入口」だったのが,最後に「門に入らせて」となっているのが見事ですが,たぶん,計算づくではなく,ここ小浜でお念仏に出会うことができたという喜びから,おのずとこのような言い方になったのでしょう.また,京都から信濃へは,こちらから出向いたのですが,才市さんが住む小浜では,阿弥陀様がこちらに向かって来てくださっています.
言葉を少しずつ変えながら最後の口あいへと流れていく,その流れが味わい深い連作です.
【補足】
楠 一:楠 恭 編『定本 妙好人才市の歌 全』 一 の pp.197--198 (一の第五ノート, 62番 -- 66番).なお,3番の2--3行目以外は『ご恩うれしや』にならって表記を改めました.
その,3番,信濃の国の2--3行目ですが,よくわかりません.楠氏は「しなれのもん」の「の」を「ぬ」に直し(これは才市さんのクセ),
死のもんのある国で/死なれぬもんの いきるくに
と「死」の字を当てて「?」を付しておられます.いわゆる「死」は死ではない,お浄土に生まれることであり,その「死の門=お浄土への門」がある,という意味でしょうか.4番目なら「四の門」とも解釈できるところですが,残念ながら(?)3番です.
また,「死なれぬもんの いきるくに」も,「死なれぬ門で,つまり生きる国(への入口)」とも,「死なれぬ者が生きる国」とも受け取れます.しかし,いずれにせよ「死なれぬ門/者」という言い方はちょっと引っかかります.「死なぬ門/者」ならともかく・・・.
『検索才市さん』(海風学舎製作, 瑞光寺, 2005)の編者,朝枝俊円師は,才市さんは「ぬ」を「の」とするので,「しなのの国」は「死なぬの国」に通じ,そこから「よい国」というのであろうと推定されています.
こんにちは.宿直明けで早く帰ってきました(夏休みに入ったので,半日代休が取りやすい ^^).
>無明の闇が破られる瞬間
先日,土曜学校で,“服についたシミを落とすなら,汚れ具合とか,シミがついたままどのくらい放置しておいたかで落ち方が違うけど,暗いところに光が差すと,そんなこと関係なく,同じように明るくなる”という話をしたのですが,うまく伝わりませんでした ^^;).
>いまここわたしを問題にする宗教でありました
次のお題にいただきます m(_ _)m
お題に採用いただき 深謝!!
そのお話聞きたく思いますが本山のようにネットに配信は無理かと
思われます、
そういえばせっかく紹介いただいた龍谷大の展示にはいろんな行事や
会議などがあり、とても見にいけそうにありません 残念至極!!
しののめ をWIKIしてわかりましたが、夜明けをいくつもの段階に分けて
味わっていたようですが、日本人の感性は豊かですね、雨でもいろんな降り方に分けて認識しています、ご和讃にも防風し雨などと読まれていますね。その感性もだいぶ鈍く成りつつあるようなのが気になりますが・・・
あいまいな言い方をして失礼しました.
お題にいただく,とは,当blogの次回の主題にする,という意味です.さらに,主題にはしますが,おそらく,題(見出し)にはなりません.土曜日中にはアップします.
パドマ展,残念でした.でも,パドマでの展示は多分これからも主題を少しずつ変えてあると思いますし,デジタルアーカイヴの方も,おそらく,過去のものを蓄積しながら今後も公開されるのだと思います(単なる憶測ですが).京都に行かれる機会があれば覗いてみてください.
夜明けのいくつかの呼び名,言い方の違いと思っていたのですが,段階の違いによる名前なのですね.私も検索してみました.“たそかれどき”に対し,“かはたれどき”という言い方もあるのですね.
『あの真珠色の空を』という題の小説がありました.夜明けの空のことです.読んでいないし,作者も忘れましたが,題名だけは印象に残りました.これは,しののめ あたりをいうのかな?
才市さんが 信濃から越後まで足を伸ばされていたとは驚きですね。法話などで聖人の一生を聞くと、その御旧跡に行ってみたくなるのは私も同じですがネ
信濃の部分を読んでいて しののめ(東雲)という言葉が頭に浮かびました。ウィキペディアを読むと、夜明け前の瞬間の一つだそうですが、無明の闇が破られる瞬間といったところでしょうか、山際がだんだん明るくなって輪郭がおぼろげに見えるころのような感じですね。
いろいろ訪ねてみたけれど、やっぱり自分のいる場所が一番いいのですね、いまここわたしを問題にする宗教でありました!!