さいちよい
御開山のご旧跡は どこか
わしのこころに ご旧跡
ご恩うれしや なむあみだぶつ
(楠 二, p.72)
親鸞聖人をお慕い申し上げ,そのため,聖人の思い出の地は私にとっても思い出の地となった,という意味にも取れますが,むしろ,聖人のご苦労はこの私のためであったという意味でしょう.以前ご紹介した藤実無極先生のご法話のなかに,
法蔵とはどこに修行の場所あるか、みんな私の胸のうち
というお同行の言葉が引用されていましたが,同じ味わいですね.
これに関して,ある方が,「如来我となりて我を救い給う」,「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」という曽我量深師の言葉を引いて次のように述べておられました.
私たち衆生を呼んで止まないあの如来の招喚の声が、煩悩心にまったく沈みきって生きる私の煩悩心を内側から打ち砕きながら、私たちに「念仏もうさんと思いたつ心」として発起することが、実は信心なのではないでしょうか。・・・私たち一人一人の内面に限りない無数のぶつかりあいと戦いがあるのではないでしょうか。これが、五劫思惟、兆載永劫なのですよ。・・・仏様は、私たちの救済のために、私の知らないようなもっとも遠いところで大変なご苦労をされて、南無阿弥陀仏というお念仏だけを私たちに廻向してくださったと、言葉としてはよくわかる。その通りです。・・・[しかし]・・・私たちの知らないところでではなく、自らの自己心、人間心を完全に打砕いて、私の主人公になってくださるのが、名号の顕現なのではないか。
(小野蓮明)
「わしに響くが南無阿弥陀仏」(才市).お念仏は,私を通過しているのではない.私に響き,私を振動させ,私を打ち壊し,今,私の内で働いている.まさに,“いま,ここ,わたしを問題にする宗教でありました”(前回いただいたコメントより).
【補足】
楠 二:楠 恭 編『定本 妙好人才市の歌 全』 二 の p.72 (二の第3ノート).なお,『ご恩うれしや』にならって表記を改めました).
小野蓮明:「万人の宗教としての「真宗」-真宗仏教の今日的意義-」(龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター総括シンポジウム「仏教生命観に基づく人間科学の総合研究」における記念講演, 2006年11月28日).
なお,この講演の主題は法蔵説話の非神話化です.今回の記事の文脈では,若干,要点からずれた引用になってしまった感があります.もとの講演記録をお読みください.