たりきには
じりきも たりきも ありはせん
いちめん たりき なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.51)
真宗の信心は他力の信心ですが,私たちはどうしても,自力を交えてしまいます.“法然さまの一日六万回には及ばないものの,累計なら六万回くらいはお念仏を称えたぞ,だらか間違いなく阿弥陀様に救ってもらえるだろう”と.阿弥陀さまの力を頼りにしながら,その中に自分の手柄を交えているわけで,こういうのが他力の中の自力です(でも,ちゃっかりと累計でよかろうと甘えたりして).
それに対し,阿弥陀如来の本願により今ここで無条件に救われることを知らされ,それをそのまま喜んでお念仏を称えさせていただくのが真宗の信心,他力の中の他力です.
ところがそう聞いて,なるほど,他力の信心にも,不純な“他力の中の自力”と純粋な“他力の中の他力”があるわけだ,信仰の純化を目指してガンバロォー!・・・(^^;).
まぁ,ガンバローならいいのですが(その果てに気づかされるでしょうから),“あんたらの信心は,本当の他力ではない,実はその奥に,「他力の中の他力」があるのだが,これを理解しているのは私くらいだ,だから,私のいうことだけを聞きなさい・・・”などと言って,素直にお念仏を称えている人を惑わす者がいたらしい.親鸞聖人が“他力の中の他力など法然上人から聞いたこともない”とお手紙に書かれたのも,そういう事情からだったのではないかと言われています.
“お念仏一つで救われるというのはとんでもない間違いだ,信心一つで救われるのだからお念仏など称えなくてもよい”などという理屈もこんな他力純化の努力から出てくるのかもしれません.もちろん,自力・他力は大切なことですが,それをごちゃごちゃ言い出すと,他力の純化のつもりが,自力に後戻りということになりがちです.
他力信心/\と一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩は、つひに他力繩に縛れて、自力地獄の炎の中へほたんとおち入候・・・たゞ自力他力何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、・・・あなたさまの御はからひ次第あそばされくださりませ・・・
(一茶 『おらが春』)
“ポタンと落ち”という言い方がいかにも一茶らしくて笑ってしまいますが,他力の縄に縛られて,とは強烈ですね.
自力他力何のかのというゴチャゴチャしたゴミは沖に流して(自力も他力もありはせん),阿弥陀さまの御はからい次第(まわり一面ただ他力 なむあみだぶつ)・・・.
【補足】
『おらが春』:『蕪村集 一茶集』(日本古典文学体系 58. 岩波書店, 1978) p.476.ただし,テキストは http://etext.lib.virginia.edu/japanese から拝借しました.しかし,日本語のテキストをアメリカの大学から借りてくるとは・・・.もっとも,たまたま,私のzaurus用電子ファイル文庫(?)にこれがあったので,検索すれば日本のサイトにもいっぱいあるみたいです.なお,一茶にこういう愉快な一文があるのを教えてくれたのは『季刊 せいてん』(本願寺)のコラムだったと思います.
他力の中の他力:霊山勝海『親鸞聖人御消息,聖典セミナー』(本願寺出版,2006) 第18章(pp.213--224),特にpp.215--221参照.
ドキ!
実は,次回は鈴木大拙師の,禅宗の香りがほのかにただよう(?)味わいが中心になる予定だったのですが,見透かされてしまったか? ここ数回は次回への長い長い前置きだったのですが・・・(^-^;)
>一念も六万辺もどちらも他力のなせる業ですね
そこが要でしょうね.そこが曖昧になると,自力・他力もゴミ議論に陥ってしまうという.
一茶の記念館にも行っておられるのですか! 三河門徒の流れとは知りませんでした.今回,久しぶりに上記一茶集をとりだして,『おらが春』のページを確認しようとしたら,そのすぐ前に『父の終焉日記』が収録されていました.前にも見てたはずなのに・・・.おもわず,引き込まれてしまいましたが,これだけでも,一茶が苦しい境遇にあったことが窺えました.
HP拝見しました。
たりきには、じりきたりきはありはせん
いちめんのたりき なむあみだぶつ
(「ご恩うれしや」51頁)
すばらしい、歌ですね。
わたしも、数年前に温泉津の安楽寺様におまいりして
「ご恩うれしや」を購入しました。
この歌、その時も注目していましたが、
久しぶりに、この歌をネット上で教えていただき、再びも三たびも感動。
有難うございました。
小林一茶の歌は初めて知りました。
こんなに、すばらしい方であることも初めて知りました。
小林一茶「おらが春」まだ読んでいませんが
「おらが春」というタイトルの深い意味を教えていただいた気がします。
こんにちは
大峰顕さんの本を読んでると(ごく少数ですが)禅宗のひとも、キリスト教のひとも、イスラムの人も 他力でないと救われないとよく書いてあります。才市さんもそう思っていたのですね。鈴木大拙師もいつも阿弥陀仏を携帯されていたと聞きました。
>信仰の純化を目指してガンバロォー!・・・(^^;).
といつも思いつつ 鈍化の一途であります。そもそも念仏を申すような
代物ではないのですから、一念も六万辺もどちらも他力のなせる業ですね。人間の心拍数を50/分とすると、一日で72000回、口意はサボリ通しですが、身はちゃんと阿弥陀さんの呼びかけに応えて、法然上人のように念仏してくれています。口と意に頼まれたことも無いのに・・・
ある方が 一茶 は三河門徒の子孫だと教えてくれましたので、新潟に
行く途中、長野県の信濃町に立ち寄ってみました、記念館で彼の一生が
とても辛いことの連続だったことを知りました。辛く苦しい故に 優しさが
歌に出るのでしょうか? 同行であることが知れると急に親近感が生まれるのが不思議ですね・・・
記念館の二階の窓から 雄大な黒姫山が迫るように見えます。近くに長女が住んでいるのですが、今月三河に仕事を辞めて帰ってくるので、もう訪れる縁がないかもしれませんが、また行きたいところのひとつであります。