ずっと以前,どこかで見た言葉です.
“ああすればよい,こうすべきだ”と思いながら実行できず,悪い方へと落ちていく.地獄への道には,実行できなかった善き意思が道をびっしり埋め尽くすほど落ちている・・・そんな意味だと説明されていました.「わかっちゃいるけど止められない」という名科白(歌詞というべきか?)がありますが,それと似たような意味ということですね.
でも,別の理解も可能ではないかと思いました.良いことだと思ってしたことが,実は善ではなかったということはしばしばあります.“子供のため”が,実は子供を甘やかして“スポイル”する,とはよく言われることですが,そのようなことを言った言葉ではないでしょうか.やっかいなのは,善と信じて行うことには抑制が効きにくいことです.“宗教的信念によるときほど,人は残虐なことを嬉々として行うことはない”という言葉には以前も触れましたが,これと同じことを言っているように聞こえました.これは,あまりにもひねくれた理解でしょうか?
今日,ひょんなことから漱石の『こころ』について同僚と話をする機会があり,その間,ずっとこの言葉が頭の中で回っていました.この言葉自体は口にしませんでしたが,『こころ』の主題はこの言葉に要約できるというようなことを言ったら,それは違うだろうという返事でした.そんな経緯で,この言葉をネットで検索したところ,これは,“The road to hell is paved with good intentions”という言葉の翻訳であること,ボズウェルの『ジョンソン伝』に出てくるが,もっと古くから似たような言葉はあったことなどを教えてもらえました.また,上に述べた二つの意味は,どちらも一般に行われている解釈だそうで,『こころ』の解釈はともかく,この言葉の理解については,私がことさらひねくれていたわけでもないようです.ヨカッタ,ヨカッタ(え?).
ただ,二つ目の解釈に基づいて,“だから,福祉なんてまやかしだ!”と言っているような文章が散見されたのが気になりました.これは,“子供のため”は子供をスポイルからと言って育児放棄を正当化するようなものですね.そういう正当化によって,善意で(!)育児放棄するのもまた,地獄への一つの善意だというのがこの言葉の意味ではないでしょうか.もちろん,そう批判するこの私の善意も,地獄への善意ではないという保障はありません.前門の虎,後門の狼(逆でしたっけ?)ではありませんが,どちらに向かっても結局は地獄への善意にしかならない.本当の善とは何かを知りえない,そんな私の「いいもわるいもみな悪だ」.結局,私たちが下す善悪の判断の危うさに行き着く言葉だと感じています.
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど・・・(『歎異鈔』)
【補足】
この言葉は,高校生か大学の頃知った言葉で,私にとって大切な言葉,というと変ですが,何か判断をしようとするときなどに,しょっちゅう頭に浮かんでくる言葉です.だけど,今日までネットで検索してみようとは思いませんでした.最近は,何かあるとすぐ“ネットで検索”ですが,頭の中でとりあえずの居場所が定まった言葉や物事については,改めてネットで検索しようとは思わないようです.年を取ると,この手の,とりあえず居場所の定まった物事が増えてくるようです.これもまた,年を取って人間が古くなる理由の一つですね.やれやれ.