あさましや
凡夫のこころは
生臭猫よ
にょこにょこと
好いたことには 頭をだすよ
あさましや
慈悲の御手で 頭を押さえ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(鈴木, p.330)
前回の記事にいただいたコメントの「もぐらたたき」,「放っておくとムクムクと・・・頭が持ち上がって」いう言葉からこの歌を思い出しました.「にょこにょこ」とか「好いたことには頭をだすよ」あたりが,哀れにも滑稽な私の姿を彷彿とさせるような気がします.
何かの小説に,「人目を盗んでクリームをなめているところを見つかった猫のような」という表現がありました.悪いこととは十分承知で,こんなことをしていればひどい目にあわされることは分かっていても,その甘さに,逃げるのも忘れてつい顔がほころぶというところでしょうか.まったくもって度し難し.
好いたことには,善いも悪いもなくにょこにょこと頭を出す.そんな私を,“ほら,また地(本性)がでた,ほら,またやってる”と倦み疲れることなく,正しい方へと向けてくださるのが阿弥陀さまのお慈悲なのでした.
【補足】
鈴木:鈴木大拙『妙好人 浅原才市集』
地がでた:石見の妙好人としては,有福の善太郎さんもよく知られていると思いますが,その善太郎さんに,カッとして奥さんを殴ろうとしたとき,お念仏が口に出,ハッとして「善太郎の地がでました」と仏壇の前で手を合わせたという話があります.
何かの小説:はっきり覚えていませんが,コリン・ウィルソンの小説だったような気がします.
まったくの余談ですが・・・.犬派,猫派って分け方がありますが,私は断固,猫派です.『ブッダ最後の旅』(中村元訳,岩波文庫)を見ていたら,「猫の這い出るほどの裂け目をも見出さない」(p.30)という比喩表現に注がついていて,何かと思ったら,猫を指す言葉について詳しい説明があり,さらに「釈尊の涅槃のときには猫は来なかった云々の説話が日本にあるが,原点では猫がここに顔を出しているのは面白い」などと書いてありました(pp.205--206).
中村博士ほどの大学者になれば,昔のインドで猫を何と呼んだかということにも深い関心と知識を持っておられることは分からないでもないですが,なんでここで,涅槃図に猫が登場しない話になるのか.しかも,ここでは猫自体が登場しているのではなくて,単なる比喩的表現で猫という言葉が出ているに過ぎません.それに,本願寺の天井にも猫の絵はあるし,猫の描かれた涅槃図も(珍しい例外として)あります.もちろん,そんなことは中村氏も先刻ご承知でしょう.でも,そんな話をすっ飛ばして,“涅槃に猫が来なかったっていうけど,ほら,仏典にはちゃんと猫がいるぞ,面白いだろ!”というかなり強引な話になっています.
多分,中村博士も猫派で,涅槃図に猫がいないことを常々残念に思っておられたのではないでしょうか.だから,仏典に猫という言葉が出てくるとうれしくなってこんな注をつけられたのでは・・・というのは,この注に大喜びした猫派の邪推(^-^).
なお,真面目な話ですが,この『ブッダ最後の旅』は大変いい本です.まだお読みになっていなければ,是非ご一読を.昔の語り物(?)特有のとっつきにくさはありますが,その辺はとりあえず適当に流してでも,お読みください.
破旬さま,こんばんは.お返事が遅れ気味になって申し訳ありません.
「弥陀の誓いの 正機(めあて)をばわれらにありと あかします(明如来本誓応機)」の部分がお好きでしたか.前にも書いたかもしれませんが,私は,「大悲無倦常照我」です.それにしても,『正信偈』はいい偈文ですね(何をいまさら,それに“いい偈文ですね”なんて物言いは不敬罪って叱られるかな^^;).『正信偈』の好きな語句を皆で紹介するという座談ができればいいな,と思っていたのですが,ここで少しできました(^-^).
釈尊が猫ということには気づきませんでした.そう言われればそうですね.ついでに,阿闍世王に対するときも猫と言えるような.犬なら,わって飛びついてぺろぺろ顔をなめてくれるところでしょうが,そうではなくて,阿闍世王のその時々の状態をしっかり見て,その場に応じた言葉をおかけになっている・・・.などと言っているうちに観経に関連して前から疑問に思っていることを思い出しました.もっとも,み教えとはあまり関係のないことですが,そのうち,書いて見ます.
うちの寺で若院さん(今年住職に昇進)が5年以上かけて
三帖和讃の勉強会をしていました。全部の和讃を学ぶとなると
どうしても用語解説にとらわれて、機械的になってしまいます。
junkさんの言われるように 参加者が10人居れば、10人が
自分の好きな(気になる)和讃を提起し、その和讃をその回は
みんなであ~ダこ~ダと言って話し合うような会をして、深め合う
ような会にすればよかったと思います。
以前現在高三の次女が 毎日の夕事勤行で和讃を繰り読みして
居るとき、「あたしは この和讃が好き!」と言ったことが有ります。
何百とある和讃の内には心を捉えるものが必ず有るはずです。
三帖和讃は教行信証の心が総て詠われているいると言われた
方がいました。また漢文の教行信証は南都北嶺の方々や念仏を
弾圧した朝廷に向けてかかれたもので、和讃は門徒に書いたもの
とも聞きました。
真宗の経典は 全部を学ぶ必要は無く、一点自分の心に響いた
ところが次々とはじけていくような気がします。得意のつまみ食い
戦法ですが・・・
> どうしても用語解説にとらわれて、機械的になってしまいます
やっぱりそうですか(^-^;).実は,私も門信徒の方と一緒に,お勤めで読むお経の意味を知ろうという勉強会をしたことがあります.正信偈から始めて,重誓偈,讃仏偈,三部経(の拝読用に抜き出してある部分)と進んだのですが,やっぱり漢文の意味を取るだけでおしまいということになりがちでした.私はいい勉強になりましたが,聞いてくださったかたには申し訳なかったです.
>真宗の経典は 全部を学ぶ必要は無く、一点自分の心に響いたところが次々とはじけていくような気がします
おっしゃる通りだと思います.全部を学ぶことより,心に響いてはじける方が大切ですよね(でも,「次々とはじけていく」っていい表現ですね).ただ,私の方に限って言えば,衣を着る立場でもそれでいいのかっていう問題がありまして・・・.
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確かに
>衣を着る立場でもそれでいいのかって・・・
門徒さんに伝えることを職責とされている方には 広く浅く
頭に入れておくことが必要ですね。相手がどの言葉に反応
するかは分りませんからね、また、話し合っているうちに
聖教の言葉を紹介する必要も生じてきます。
反面、門徒の立場では先人たちが日々の暮らしとしてきた
門徒生活をどんどん簡略したり、取りやめたりして
ずぼら門徒と成り果てていますので(自分のことですが)
junkさんのような思いをお持ちの坊主群には申し訳ない
限りです。
本山の方では来年の大遠忌を契機にいろんな改革を考えて
居るようです。我が派では全国30教区を統合して15教区に
まとめようとしているようです。しかし、50年前のような
門徒の側からの突き上げるような動きが全く見られないのが
心配です。(他人事のように言ってますね、責任者なのに)
こんにちは
才市さんに猫をうたった詩があるんですね。
観経を読むと(ちゃんと読んでませんが、つまみ食いすると)
イダイケ夫人に対する釈尊は ねこ的ですね 涙の枯れるまで
泣かせておいて、放置しているかと思いきやちゃんと見守って
いらっしゃる。ねこは私たちを見ないような振りをしていますが
ちゃんと観察しています。
常にこちらを見ているようで、じつは手に持ったごちそうしか見ていない
犬とは全く違った生き物です。
ブッダ最後の旅 ・・ほとんど本を読まないけど、人生の課題図書として
リストアップしておきます。
ひとのことばでいろんな事を思い出すこと ありますね~
そのひと言が無かったら死ぬまで思い出さなかったかも知れません。
寺での座談が大事だと教えられます。
大派の本山奉仕団の日程は大半座談に費やされます。50年前に
同朋会運動を仕掛けた方が「奉仕団で本山に来た人は、同朋会館を
お土産に持って帰って欲しい!」と言われていました。同朋会館での座談を寺に家に持ち帰って始めて欲しいと・・・
一つの寺で二人、こんな思いに応える人がそろえば住職を巻き込み
始められるのですが、あと一人が居ないので私は土産をまだカバンの
中に入れたままです。一人でも始めればいいのですが、出来ない理由を
いつも他にもとめております スンマセン