『歎異抄』の「弥陀の本願まことにおはしませば・・・云々」という言葉のように,高い空がそのまま地の水にうつるように,まじりのない澄み切った才市さんの信心の味わいというものを「信はこれ 底抜けて澄む 水の如《ごと》」と表現してみました.
(特留「才市忌に寄せて」)
特留《ことどめ》誓現師は,同じ組内のお寺の前住職様で,すでにご往生なさいしたが,「俳句囲碁熱燗あれば足る余生」という句からも伺えるように,俳句をよくされ,囲碁がお強かったとお聞きしています.上に引用したのは,「才市さんを偲んだ数句」について語られたもののですが,ただ,この句と自注は,うっかりすると誤解してしまいます.これについて,やはり近くにある別のお寺のご住職様からつぎのように聞かせていただきました.
「底抜けて澄む水の如」.井戸だったら,水が澄んで底がよく見えるようになる・・・.井戸浚えしたことありんさらんか? 汚いものが一杯出て来ましょうが.落ち葉なんかはいい方で,下駄の片っ方が出てきたり,なんだかよう分からんものがぐしゃぐしゃになって出て来る.「底抜けて澄む」信心によって,そういう井戸の底がはっきり見えるようになるのですね.
これを念頭において,もう一度,句と自注をお味わいください・・・.
表面の汚れを取ってやれば,内なる仏性が輝きだすどころか内側の汚れがはっきり見えるようになる,それが,私の本当の姿なのではないでしょうか.
【補足】
特留「才市忌に寄せて」:「才市忌によせて --- 特留誓現師の俳句から ---」文・石橋泰範.『妙好人 才市さんの世界』(本願寺, 1981)所収(185頁~193頁).引用は同書187頁から.
特留菖堂(1914--1987. 誓現師の俳号)『白道』(1999)よりいくつか引用します.ただし,詩歌文芸を解さない者の引用で,さらに,法久寺さまのサイトで紹介されているものと重複しないようにしましたので,その辺はよろしく.
お講果て碁仇《ごがたき》沙弥《さみ》をいざなひて (p.6)
天上天下唯我独尊案山子翁《かかしおう》 (p.18)
シャボン玉いびつにふくれ飛んで丸 (p.49)
内陣に紅葉の散華《さんげ》三奉請《さんぶじょう》 (p.100)
住職を幼な名で呼びお取越 (p.120)
洗わざるまゝに才市の硯かな (p.168)
吾が法話吾に聞かせて梅雨を病む (p.197)
なお,「信はこれ・・・」の句は,この句集では31頁に,また,「囲碁俳句・・・」は
159頁にあります.
こんにちは(今日は,まだ夜ではない^-^;).
今の若い人は,井戸を見たことない・・・そうか,そうかもしれませんね.ずっと以前ですが,洗濯板という喩えが高校生に通じなくてショックを受けたことがあります.でも,知らなくて当然でした.昭和は遠くなりにけり・・・なんて歎じる日も遠くない?
「お浚いのお勤め」,初めて聞きました.お東の習慣なのか,当寺がサボっているだけなのか.報恩講のあと,これから1年が始まるというのはいいですね.
ちょっと横道にそれますが,ご和讃を読み返して,「金鎖をもちてつなぎつつ」,「七宝の獄」などの言葉が目に飛び込んできました.ご和讃の文脈からは外れるかもしれませんが,物はたくさんあるのにかえって苦しいという現代を表わしているように感じました.
本タバコCDあれば足る余生・・・などと言えば,あちこちから石が飛んできそうな気配.
こんにちは
井戸浚えの喩え、よくわかりますね でも 今の若い人には
理解は出来ないでしょう。井戸自体を見たことが有りませんからね。
有ったとしても密閉されて、電動ポン装備で水面が見れないでしょう。
井戸もよほど浅いもので無い限り底は見えません。光が届かないからです。私たちの心の中も同じですね、法の光無しには自分の姿は見えません。60年近く井戸浚えもせずにきましたが、毎年一度だけ浚える時があります。手次寺の報恩講(12/15~17)のご満座法要の後、門徒同行の総会が開催されます、そのときに全員で「お浚いのお勤め」をします。和讃は 不了仏智のしるしには~次第6首 です。報恩講行事の最後に
お浚いをするのは、報恩講から門徒の一年が始まると言われていますので、大事なことだナ~と思っているのです。
俳句も囲碁も出来ませんので 私の場合は
聴聞と サンガと熱燗 足る余生
でしょうか?