有角者機 合掌者法
法能摂機 柔軟三業
火車因滅 甘露心愜
未到終焉 華台迎接
大正九年三月
宝樹山 謙敬 題
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角の有るは機 掌を合わすは法
法よく機を摂し 柔軟の三業
火車の因滅し 甘露心にあきたる
未だ終焉に到らずして 華台迎接す
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報恩講のため話が中断しましたが,角のある肖像の続きです.
写真は,先にご覧いただいた才市さんの角のある肖像の上部にある賛です.上に原文と
書き下しを掲げましたが,3行目の最後の漢字が表示されているでしょうか.この賛については,才市顕彰法要でご講師が次のように説明してくださいました.
「角有るは機」.私たち人間は,自分には角がないと思っておられるかもしれませんけど,目に見えないところの角を皆,持ち抱えているのであります.欲,怒り,ねたみ,そねみ,まぁ,本当にたくさんの角をはやしておるのがお互いであります.そういう者が,いつのまにやら手を合わせる,そういう身の上にならせていただくわけであります.
今から二十年も前になりましょうか,「手を合わせると私がかわる」と書かせていただいたことがありますが,この手を合わせるということが,なかなかできない.できそうだけどできない.ご飯を食べるときも,食堂,レストランで,何人の方が手を合わせて食べておられるでしょうか.そういう中で手を合わせていただくということは非常に大切なことです.「手を合わすは法」.
「法よく機を接し 柔軟の三業」.三業とは,身口意の三業と申しまして,身業というのは行い,口はことば,意は意識ですね.これらには,善悪がある.口でも,良い事を言うこともありが,嘘をついたりだましたり.心にも悪い心と言うのは起こってくる.火の車 作る大工は おらねども 己が作りて 己が乗り行く
という古い歌がありますが,自分で作ってまさに地獄に行かなければならない.そういうものでありますが,その因を滅していくんですよ.それが,「柔軟の三業,火車の因滅し」.そうしますと甘露,ああ有り難い事だな,うれしいな,「甘露が心にあきたる」.あきたるというのは,ちょうど,コップに水をいれていって,あふれる,こぼれるということです.よろこびが心からあふれ出る.
「未だ終焉に到らずして」,今,生きている間から蓮華座,仏様の蓮台の上にちゃんと迎えとってもらっている.一座を賜わっている.それを「正定聚」という言葉でお示しになっているわけであります.
家に帰っており場所がなければ大変ですね.じぶんの場所だと安心して座っている場所があること,それが一座を賜わるということです.でも,娑婆の世界にいつまでもとどまることはできません.何がおこるやらわからない.
昨年の10月,私のところのあるご門徒が,台風のあとの被害状況を写真にとろうとスレートの屋根に上がり,滑り落ちてなくなりました.28歳,前の年に結婚し,子供が生まればかりで,その子の誕生日も迎えていなかった.三世代そろった家族でしたが,家族の中で孫が最初に逝ってしまったのです.何がおこるかわかりません.
おたがい,まだまだとおもっているが,間違いなしに終焉はやってきます.必ずやってくる.娑婆の世界で“必ず”といえるのはこのことくらいですね.お互い普段使っている“必ず”はあてにならない.本当の“必ず”がつかえるのは阿弥陀様だけです.「必以信心為能入」ですね.阿弥陀さんによって,間違いなしに必ず場所が与えられる,そういうものがすでに与えられておるわけであります.それを正定聚という言葉でお示しになっている.今,ご臨終ではないけれど,正定聚不退の位につく,死ななくては救われないというのではなく,今ですね.これを現当二世の両益といいまして,今,生きている間もご利益をいただいていますし,いのち終わってからも頂くのであります.
なお,口調は再現するように努めましたが,かなり要約・省略しました.