ねんぶつには かぎりなし
ねんぶつは こくうのごとく
ねんぶつは せかいのごとく
ねんぶつは うみのうしほのごとく
ねんぶつは やまのきかや《木茅》のごとく
れんぶつは さいちがつみのごとくなり
ねんぶつは
いまはわたしが まるでとられて
(『ご恩うれしや』 p.147)
前回,高校の教科書に載っていた西脇順三郎の詩をご紹介しましたが,その教科書には,次の詩も載っていました.
南風は柔らかい女神をもたらした.
青銅をぬらした,噴水をぬらした,
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした,
潮をぬらし,砂をぬらし,魚をぬらした,
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした,
この静かな柔い女神の行列が,
私の舌をぬらした.
(西脇順三郎「雨」)
才市さんの歌を読んだときこの詩を思い出し,相乗効果でどちらの詩もますます好きになりました.二つは非常に良く似ているような気がします.情景はぜんぜん違いますが,構成といい,包み込まれている感覚といいほとんど一緒ではないでしょうか.
どちらの詩も,最後の2行が,最初の1行に呼応した結論というか主題のようなものになっています.でも,“これが主題だ!”と太文字で大書されているのではなく,単純な繰り返しの流れにのって,自然にたどり着いたという感じですね.
伊藤氏によるこの詩の解説を,(伊藤氏には失礼ながら)才市さんの歌に引き寄せる形で引用してみます.
・・・この詩ぜんたいの情感は最初の一行で決定され,第二行以下は・・・雨が,南欧の自然をすっかりつつんでしまったという,一種の説明にすぎないのである.・・・[同じ言葉の繰り返しは]自然のすべてが春の季節にふくらかな生命を得て,・・・次第に血液が温められてゆくような,やわらかい情緒のながれ・・・[を感じさせる].読者はこの単純な構成にそのままついてゆけばよく,春のあたたかい情緒が,この詩のいっさいであり美なのである.
いかがでしょうか.あと少し言葉を入れ替えると才市さんの詩の味わいになりそうな気がします.たとえば,「雨」を「なむあみだぶつ」に,「南欧の自然を」を「この世界を」にというふうに・・・というのは,詩歌文芸をもっとも苦手とする私の独断と偏見(^-^;;).
【補足】
西脇順三郎の詩は,前回に続いて,伊藤信吉『現代詩の鑑賞(下)』(新潮文庫,1974)p. 381からの孫引きです.
伊藤氏の説明は,同書 pp.383--385から,かなり自由に抜粋しました.[ ]内は引用者補足.なお,伊藤氏の解説には「艶《つや》めいた」,「なまめいた」という言葉が何度か出てきます.たぶん解説のキィワードなのですが,それを省略しました.
こんばんは.お忙しそうな中,コメント有り難うございます.
>物が物自身について語ることを聞く
関係ないですが,思い出したことを一つ.
“いい文章とは,名文だと思わせる文章ではなく,文章を意識させることなく,書かれている内容がそのまま頭に入ってくるような文章である”と誰かが言っていました.“内容が内容自身について語っているように書け”ということでしょうか.
私も詩歌文芸の類は苦手です.今まで2度ほど短歌を作らねばならぬハメに陥ったことがあります.一度は高校生の頃の宿題なので,まぁ,どうでもいいとして,二度目の時には,お願いだから,相手を選んで依頼してくれって叫びたくなりました.
今話題の(?)『日本人の知らない日本語』という本を最近読んだ(見た?)のですが,大学入学許可を求める手紙を書けという課題をもらった中国からの留学生が,堂々たる詩文の手紙を書いてきたというエピソードがありました.科挙以来の伝統が今も生きているのだなぁと感心しました.日本に伝わったその伝統が,明治・戦後と2度にわたって途絶えてしまったせいで,今,詩歌が分からないと悩むことになった・・・と,日本の歴史に責任転嫁しておきます(^-^;).
しばらくキ-ボ-ドから遠ざかっておりました。
前回同様、詩を理解できない私ですが、たまたま(自宅自営なので通勤しない)電車で名古屋(約1時間)に行った往復で読んだ本に
「日常の言葉においては、人間は人間や物について自分が語ることを聞いているが、詩において人間は、物が物自身について語ることを聞くのである」
というスイスのマックス・ピカ-トという人の「人間と言葉」という本の中の言葉が引用されていました。詩人とか俳人で名を馳せたひとは物が喋っている言葉を聴く能力を持った人なのでしょう。とても私にはそんな能力はありませんが、そんな人たちの詠んだ詩や俳句を読んで、情感を感ずる訓練をしたいものです。
そういえば、別院(赤羽別院)に俳句を詠んで投句をするように云われて
いますので、一ひねりしなければ!!!