さいちや
いま息がきれたら どうするか
はい はい
あなたのなかで きれまする
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』p.223)
ギリシア・ネタの続きで,今回はソクラテス・・・といっても,現代に『帰ってきたソクラテス』で,記録者はプラトンならぬ池田晶子です.
いったい誰が自分でこの生命を作ったというのだ.誰が自分でこの生命を手に入れたというのだ.最初から自分のものでないものを,自分のものだと言おうとするから,おかしなことになるのだよ.
(池田 『無敵のソクラテス』,p.23)
“私の命は私のもの”という言い方は,“お前の命はオレのもの”という人に対抗するには非常に有効です.でも,それ以上のものではないでしょう.「子は天からのさずかりもの」,「身体髪膚《はっぷ》之を父母に受く」という言葉もありました.
さて,上の文章を読んだのと前後して次のような文章を読んだような気がするのですが,どこで読んだのか分かりません.ごく最近のことなのですが,物忘れもだんだん佳境に入ってきました.
自分のあずかり知らぬ働きによってこの命をさずかり,自分の知らぬ働きによって毎日を生きている.ならば,死ぬときも,その働きにすべてを委ねて何の不安があるというのか.
確かに,私が生まれるのに,私は一切関与していません.また,毎日生きていくのにも,私の関与しない多くのものに頼っています.たとえば太陽・・・いや,自分自身の身体でさえ,自分でコントロールしているとはいいかねます.たとえば,心臓の動きをコントロールしているのはこの“私”でしょうか?
これは,一方では自分の自由にならないということですが,他方では,心配しなくてよい(心配しようがない),任せておけるということでもあります.普段は,任せていることさえ意識せずに任せている.でも,死ぬときになって,そのことに気づくと,自分の意のままにならないことだけが強く感じられ,慌てふためいてしまいます.
私を生み,生かしている働きと,それに安心して任せながら生きていること.このことに気づき,そのことを日頃から喜んでいれば,その働きのなかで息が切れるといって何を慌てることがあるだろうか.そういう感じが「はい,はい」ではないでしょうか.
【補足】
池田:池田 晶子,NPO法人 わたくし,つまりNobody 編『無敵のソクラテス』(新潮社,2010).これは,ソクラテス(とクサンチッペ)が登場する池田氏の文章を集めたもので,引用した部分は,元は『帰ってきたソクラテス』に収録されていたものだそうです.
身体髪膚、之を父母に受く:『孝経』開宗明義章第一.『ウィキクォート(Wikiquote)』の「孝経」のページからお借りしました.なお,「身体髪膚、之を父母に受く」などという言葉は,「お前の命はおれのもの」と言いたい人も好んで使いますね.そもそも,この言葉が廃れた一因は,そういう使い方をされすぎたせいではないでしょうか.そういう人の言葉に乗せられないようにしなくちゃ(^-^;).
こんばんは.
手塚治虫に,石舞台古墳?をテーマにした『火の鳥』番外編?がありました.自分が死ぬとは思っていなかった大王?が急に死んでしまって,慌てて作ったからあのようになったという話です(多分これは史実とは違っていて,手塚氏自身もそれは承知の上で書いている感じでした).その作品で,自分が死ぬと分かったときの大王の慌てぶりが印象的でした.
え,死ぬの,ウソだろ,まだあれもしたい,これもしたいのに.いっぱい貯めた財産もまだ使っていない.もう少し待って.え,ダメ? 本当に今,死ぬの.じゃ,せめて名言を残そう.でも勉強後回しにしてから急には出てこない,わ,もう時間切れ・・・と慌てふためいた挙句,「バカは死ななきゃなおらない」という迷言を残して死ぬ様子がコミカルに描かれていました.
日頃からの念仏が大切というとこの話を思い出します.
息が切れてしまったなら、もうどうしようもありません。
才市さんのように、あなたの中で切れたことを祈るしか
ありません。
でも、事前に知らせれて、一刹那でも時間をもらえたらなら
急いで、早口で念仏をさせていただきましょう。今までサボった分
反省を込めて・・・、でも癌末期で痛みにのた打ち回っていたら
たぶん、念仏も出ないでしょう、ごめんなさいだけでも云えたら
いいのですが・・・・
やはり日頃からの念仏は必須でありますね・・・