わたしやじごくに おちるじゃないよ
じごくは現に すみか すみか
これがじごくの すみかぞかし
(『ご恩うれしや』 p.230)じごくは死んでからおちるじゃない
いまおちる
あきまし あさまし
ざんぎ くわんぎの なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 pp.230--231)
NHKで放映された『映像の世紀』というシリーズ番組をご覧になった方も多いと思います。映画の出現以降に、動く映像として記録された無数の人々の姿 --- 燃え上がる都市の中を逃げ惑う人々、享楽的な都会の若者たち、平和な農村風景、村人の首を切り落として穴に蹴落とす兵士、勇んで戦場に出かけていく人々、ブルドーザーで処理される死体の山・・・。まさに、「一切皆苦」の世界が、感情を抑えたナレーションと印象的な音楽とともに繰り広げられる番組でした。
「一切皆苦」といっても、毎日が苦痛の連続で、楽しいこと、うれしいことなど一つもない、という意味ではありません。
[一切皆苦とは]人間の本質的な苦の状態をいうものである.感覚的に苦であるとか,好ましいものの消失するのが苦であるというようなことではなくして,心身の活動を有している私たちの存在そのものが苦である・・・.だから,[一切皆苦という]この法印を,人生には様々な苦があることを教えているなどと表面的に理解してはならないであろう.
(『釈尊の教えとその展開 -- インド篇 -- 』 p.42)
つまり、時代の流れに翻弄されて、喜んだり悲しんだりしている、そんな、か弱く惨めな人間のありよう全体が「苦」と言われるわけです。
才市さんが、「地獄は死んでから落ちるじゃない」、「地獄は現にすみか」といったのも,地獄に必ず落ちるという恐れの強調でもなければ、毎日が苦しいという嘆きでもないでしょう。自分の浅ましい姿を知らされて、それを地獄に住んでいると歌ったのではないでしょうか。
【補足】
勧学寮 編 『釈尊の教えとその展開 -- インド篇 -- 』(本願寺出版社, 2008年)。
『歎異抄』第2段が書き写されている才市さんのノートが残っています。「じごくの すみかぞかし」は、おそらくこれによったものでしょう。