出て行く後生を
疑いと自力
これが邪魔もの
罪の算段無用なり
罪の算段する人は
方角違えて地獄に落ちる
(鈴木,p.310)
前回と似た歌ですが,「地獄に落ちる」ともっと強い表現になっています.
御文章に
わが身の罪のふかきことをばうちすて,仏にまかせまゐらせて
(『御文章』5(4) 『注釈版聖典』p.1191)
というお言葉があります.つまり,「罪の算段する」(自分の罪についてあれこれ考え悩む)ことは,阿弥陀さんにまかせていないということですね.
そういう点で,自分の罪についてあれこれ思い悩むことは,阿弥陀さん抜きで‘私の心は私の宝’と言うのと似ています.どちらも,自分の心を覗き込むことに熱中している.その結果,ダメだと思って落ち込むか,すばらしいと言って空しくなるか,いずれにせよ,自分を世界の中心に据え,それを一生懸命見つめて苦しんでいるわけです.
罪のあるなしの沙汰をせんよりは,信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし.罪消えて御たすけあらんとも,罪消えずして御たすけあるべしとも,弥陀の御はからひなり,われとしてはからふべからず,ただ信心肝要なりと,くれぐれ仰せられ候ふなり.
(『蓮如上人御一代記聞書』本(35)(『注釈版聖典』p.1244)
なお,いわゆる罪悪感と,真宗でいう‘私は罪悪深重の凡夫です’との違いについては,「苦笑の独り言」に十数回にわたって詳しい説明があります.今回と前回の記事を書く際に多くのことを教えられました.
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-473.html
から順にたどってください(こういう場合に「トラックバック」ってやつをつかうのかな??).
【補足】「鈴木」:鈴木大拙『妙好人 浅原才市集』,春秋社,1967.