わが罪を心にかけておる人は
それはお慈悲を知らぬから それは
あうちゅうこうちゅう[あっちこっち]
慈悲を心にかけてみなさい
わが罪に用事はなしの花
(鈴木, p.387)
自分の罪深さを認め,悔いるのが宗教だと言われることがあります.まあ,そうなのですが,これを自己反省とか罪悪感と考えると,宗教から(少なくとも真宗)から遠ざかってしまうことがあります.
蓮如上人には次のようなお言葉があります.
罪消して助けたまはんとも,罪消さずしてたすけたまはんとも,弥陀如来の御はからひなり.罪の沙汰無益なり.
(『蓮如上人御一代記聞書』本(39) 『注釈版聖典』p.1245)
また,源信和尚のお言葉と伝えられる『横川法語』はこう結ばれています.
妄念をいとわずして,信心のあさきをなげきて,こころざしを深くして常に名号を唱うべし.
(【意訳】「私は妄念ばかりで,いつまでたっても信心が得られない,ああ,なんて私はダメなやつだ・・・」ですって? そんことわかりきったことじゃない.阿弥陀さんの想定範囲内! そんなことでくよくよ悩むヒマがあったら,お念仏を称えなさい.)
【補足】
「鈴木」:鈴木大拙『妙好人 浅原才市集』,春秋社,1967.
『横川法語(念仏法語)』は,聖教電子化研究会の電子化テキスト(http://www.icho.gr.jp/seiten/html/961.html)から引用しました.底本は『真宗聖教全書』だそうです.
才市さんの歌で,「あうちゅうこうちゅう」というのがよくわかりませんが,‘あっち行き,こっち行き,右往左往している’という意味でしょうか.