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才市の詩
入り口に掲げた詩
2001年 6月-2002年 6月

6月 4日, 2001年

はらがたつなら ねんぶつもうせ
ぶつ(仏)もこころで なむあみだぶつ
はらがたつなら ねんぶつもうせ
ぶつ(仏)もぶつぶつ なむあみだぶつ

石見には才市さん以外にもにたくさんの妙好人が生まれています.その一人,有福の善太郎さんにこのような話があります.

ある日の夕方,ささいなことから奥さんに腹を立てた善太郎さんは,口論するうちに次第に怒りが激しくなり,ついには割木を振り上げた.ところが,それで奥さんを打とうとした時,阿弥陀仏の呼び声を感じ,怒り狂う自分の醜い姿に気づかされた. 善太郎さんは仏壇の前にいき,「善太郎の地がでました」と懺悔した....

さて,才市さんの詩の一行目は,阿弥陀仏からの呼びかけでしょう. 腹がたつなら念仏しなさい.ほら,私が称えてあげるから.なむあみだぶつ,なむあみだぶつ,ぶつ,ぶつ,ぶつ....

こう歌う才市さんには,腹を立ている自分の愚かさ,みっともなさを一歩離れたところから見ている目が感じられます.

劇的な行動か,内省的なつぶやきかという違いはあるものの, 「なむあみだぶつ」によって自分の姿を見つめるもう一つの目が与えられたという点で,才市さんの詩と善太郎さんの話とは通じるところがあるように思えました.

7月 3日, 2001年

才市が心は
ヒョウタンで
いつも うかうか
なむあみだぶの
風に吹かれて
浮いて流れる
弥陀の浄土へ

仏教の基本は,優れた智恵でこの世の真実を見ぬき,善悪を正しく見定め, それに基づいて,正しい行い・言葉・心を保ち, 正しい努力を積んで仏になることです.

しかし,それは至難の技です.まず,私たちは真実を直視できません. 自分の欲望に邪魔されて善悪も都合のいいように判断し勝ちです. さらに,“分かっちゃいるけどやめられない”.

そういう私たちのために用意されたのが, 他力の信心,「南無阿弥陀仏」です. ですから,「南無阿弥陀仏」は, 当てにならない私たちに合わせた“特別仕様”になっています. それを才市さんは,フラフラと水面を漂うヒョウタンと,それを流す風に喩えました. 軽いヒョウタンだからこそ風に流されて岸に到達できるわけです.

溺れかけた人間は,助けようとする人に必死でしがみつき,かえって一緒に溺れてしまうことがある,と聞いたことがあります.自力のジタバタは,しょせん溺れかけた人間の悪あがきに過ぎません.そのことに気づかされ,弥陀の風に身を任せるとき, この詩のような心の安らぎがもたらされるのではないでしょうか.

7月21日, 2001年

風はふけども 山は動かぬ
妄念のかぜはふけども こころ動かぬ
なむあみだぶに こころとられて

前半の二行は,煩悩を持ったままで救われるという意味で,真宗の要です. しかし,これだけでこの詩が終わっていたらどうでしょうか. 肩を怒らせ,懸命に踏ん張っているような, ちょっと硬い詩になっていたでしょう.肩こりがしそうですね.

ところが,才市さんはこの詩を 「なむあみだぶつに こころとられて」 と結んでいます.ここで,ふっと肩の力が抜けるような感じがしませんか. 妄念の風が吹いても心が動かないのは,私が力いっぱい踏ん張っているからではありません.ナムアミダブツに心を取られているからだったのです.

妄念の風が吹き荒れていても,なむあみだぶつにすべてを任せたとき,ふと肩の力が抜けて心が和らぐ.これが他力の世界です.

1月 1日, 2002年

いきること
きかせてもろたが なむあみだぶつ
うれし うれし いきるが うれし
なむあみだぶつ

お正月になるとたくさんの人がお宮に初詣に出かけます.では,お寺に参るのは,というと,お盆や彼岸に墓参りに,というところでしょうか.また,生まれたときはお宮参り,結婚式は神式で(それともキリスト教の教会で?),そして死んだ時には仏式で葬式を,というのもよく聞く話です.

どうも,お寺というのは死んだ人の世話をするところ,生きている人間には関係ない,と思われていることが多いようです.

こういう誤解は昔からあったようで,あの一休さんに,死んだ人を見て「死んだ人間に用はない」と言って立ち去ったという話があります.たぶん,こういう誤解を正したいという気持ちから,一休さんらしく人を驚かせるようなことをして見せたのでしょう.

仏教は,なによりも今生きている私たちのためのものです.そして,南無阿弥陀仏に生きることを聞かせてもらったとき,「生きているのがうれしい」と自然に言えるようになる...才市さんのこの詩はそのことを教えてくれます.

この正月を厳しい境遇で迎えられた方も多いと思います.それでも「生きるがうれし」と,誰もがそれぞれの置かれた境遇の中で正月を喜ぶことができますよう念じております.

6月 30日, 2002年

邪見もの 忘れて暮らす
この上なしの 邪見もの

「邪見」とは,「邪(よこしま)なものの見方」ということです. ただし,ここでいう「邪」とは,世間一般に言う「邪悪な」という意味ではなく, 「間違った,正しくない」という意味です.

ですから,才市さんのこの歌は, 「私は正しくものを見ることができず,間違った考えばかりにこだわっている.それなのに,そのことに気づかず,それを忘れて暮らしている.だから極め付きのバカだ」という意味でしょう.

蓮如上人のお手紙(『御文章』)に,「末代無智の在家止住の男女」に呼びかけた一通があります. 「世も末だ,と思える世の中で,出家せず普通に暮らしている無知な男女」という意味ですが,「世も末」にはうなづけても,「無知な男女」といわれると, 「まあ,蓮如さんの時代には,文字も読めなかった人も多かっただろうし」などと, つい他人事のように思ってしまいます.

詐欺師が一番カモにしやすいのは, オレはだまされるほどバカではない,と思っている人だとか.... そういえば,これだけ科学が進歩し, 学校だけでなくテレビなどでも科学番組がたくさんあるのに, 迷信やまじないの類はいっこうに減りません.それどころか, 科学的に見せかけたデタラメがまかり通っています.

現代の私たちは, 教育が普及した分だけ,かえって正しい教えを受け入れにくくなってしまっているのかもしれません.


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