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才市の詩
入り口に掲げた詩
2001年 3月- 5月

3月 11日, 2001年

弥陀成仏の このかたは
わしの心に経たまえり
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

親鸞聖人に

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
というご和讃があります.真宗ではお経の一部として読むことが多いので,よくご存知のかたも多いことでしょう.

この和讃の前2句(阿弥陀如来が仏になられたのは,十劫(じっこう)という想像もつかないほどの長い年月が経た昔のことである)は,阿弥陀如来はずっと昔から私たちの傍らにいてくださったという意味であるとともに,私たちがすでに,阿弥陀如来の救いに与かっているという喜びを歌った句でもあります.というのは,阿弥陀如来は,すべての人を救わない限りは仏にならない,と誓われて修行をされたからです.つまり,阿弥陀如来がずっと昔に仏になられたということは,すべての人を救うという誓いがずっと昔に果たさているわけです.

さて,才市さんは親鸞聖人のこの和讃を,「わしの心に経たまえり」と味わいました.阿弥陀如来が仏になるために修行をされたのは,まさに,この「わし」を救うためだったと受け取ったわけです.

「阿弥陀如来がすべての人を救うという誓いをたてられ,その手立てを長い時間をかけて考え抜かれたのは,よく考えてみると,ひとえにこの親鸞一人を救うためだったのだ (弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり)」という親鸞聖人の述懐が『歎異抄』に見えますが,才市さんのこの詩も,同じ感慨と喜びを歌ったものです.

才市さんには,次のような詩もあります.

弥陀成仏の このかたは いまに
十劫をへたまへり
わしの心に経たまえて
くださる慈悲が なむあみだぶつ

4月 8日, 2001年

目に見えぬ 慈悲が言葉にあらわれて
なむあみだぶと 声で知られる
なむあみだぶを きくときは
親の名に こめられてきく
なむあみだぶつ
ごおんうれしや なむあみだぶつ

最近,DNAとか遺伝子とかという言葉をよく聞きます.しかし,DNAも遺伝子も直接目で見ることができないので,理屈を聞いただけでは存在や働きはなかなか理解できません.そのためでしょう,DNAや遺伝子の話には絵や図,たとえば“はしご”のような絵がよく使われます.この“はしご”がいろいろ形を変える絵を見ると,DNAがどのように働いて遺伝情報を伝えるのかがよく分かります.目に見えないもの,目に見えない働きでも,具体的な形で表わされると分かりやすくなるわけです.

目に見えないものの存在や働きを納得するためには,目に見える形で表わす以外にもいろいろな方法があります.空気は目に見えないが,肌に風を感じればあることがわかる.暗闇で母親の姿が見えなくても,子守唄を歌う声が耳元に聞こえれば子供は安心する.要するに,何か具体的なものとして感じ取ることができればいいわけです.

ところで,阿弥陀如来も,「色もなく形もない」(親鸞聖人),つまり,目には見えません.ですから,そのままでは存在に気づかず,働きも理解できない.目に見えない仏を本当に信じることができないのです.

そこで,阿弥陀如来の方から,私は確かにいる,間違いなくおまえを救う,と名乗り出てくださる.それが「なもあみだぶつ」です.これによって私たちは目に見えない阿弥陀如来の存在と働きを知ることができます.ですから,「なもあみだぶつ」は,何かを要求するために仏に向かって言う言葉ではありません.自分の口から出る「なもあみだぶつ」,つまり仏の名を,親からの呼びかけのように自分自身が聞かせていただく.それが真宗の称名念仏です.

4月22日, 2000年

ねんぶつの でぐちがしれぬ
こくうから わしにひびくが
なむあみだぶつ

私は理科教師ですので,抽象的な文章などを読むときには理科的なイメージが頭に浮かぶことがよくあります.今回は, 才市さんのこの歌を読んで私の頭に浮かんだ理科的イメージを二つ記します. あくまでも個人的な連想ですので, 変に感じられるかもしれませんが,ご容赦ください.

1) 夜,広いところで車のヘッドライトをつけて横から見ても, ヘッドライトのすぐ前の辺りは光があるようには見えません. ヘッドライトの光は前に向かっているので, 横から見ている人の目には入らないからです.

ところが,白いレインコートを着た人が立つと,レインコートが明るく照らされてヘッドライトの光がどれだけ明るいかが分ります. あるいは,小さなガラス片を投げ込むと,キラキラと輝いて光があることを教えてくれます.

2) 科学工作の一つに,「スピーカーを作ってみよう」というのがあります. 「ゼム・クリップ」にエナメル線を何度も巻きつけ,丸い磁石(ホワイト・ボードに紙片を留めたりするのに使う)にセロファン・テープで貼り付けます.これを,ラジオなどのヘッドホン端子につなぐ.このままでは音はしません.しかし,カップ麺容器や紙コップの裏とかスチール机など,音が響きやすいものに押し付けると音が聞こえてきます.

念仏はこの虚空世界に満ちている.しかし,そのままでは聞こえない.それが,私という媒体に触れたとき,「なもあみだぶつ」という音となって顕在化する.それによって私は「南無阿弥陀仏」の存在を知る.ちょうど,ガラス片の輝きによって光の存在が知れ, 紙コップの響きによって「ゼム・クリップ」が鳴っていることがわかるように....

前回ご紹介した才市さんの歌と今回の歌とを読んで,こんな連想をしました.

5月20日, 2001年

名号[を] わしがとなえるじゃない
わしに 響いて なむあみだぶつ
名号(みょうごう): 「なも(む)あみだぶつ」(南無阿弥陀仏)のこと.

真宗の念仏(称名)は「ありがとう」という意味だ,とよく言われます. 「なむあみだぶつ」というのは, 私を救ってくださった阿弥陀様に対するお礼の言葉である, 何かを要求するために「なむあみだぶつ」と手を合わせるのではない, ということです.このことを特に強調されたのが蓮如上人で,「仏恩報謝の念仏」,「御恩報尽の念仏」などと言っておられます.

ところが,才市さんには,念仏は阿弥陀様の方からやって来たものという意味の詩がたくさんあります.これは「仏恩報謝の念仏」と矛盾しているのでしょうか?

たとえば,小さな子供が何かをしてもらったとき,周りの大人が「ありがとう」と言って見せることがよくあります(母親が何かをしてやって自分自身で「ありがとう」といって見せることさえある).子供は,わけも分からないまま「ありがとう」と口真似する.そんなことを繰り返しているうちに,何かをしてもらったら「ありがとう」と言う習慣がつき,やがて感謝の気持ちも生まれてきます.

私たちの「なむあみだぶつ」もそんなものではないでしょうか.放っておけば感謝の言葉など出るはずもない,そんな私たちへの呼びかけが「なむあみだぶつ」です.そして,それを口真似で「なむあみだぶつ」と繰り返すことが御恩報謝の念仏なのです.

感謝の言葉としての「なむあみだぶつ」と,阿弥陀仏の呼びかけとしての「なむあみだぶつ」とは決して矛盾するものではありません.蓮如上人はこれを,「阿弥陀仏の方から...ありがたいと念仏申す心も,みなお与えになられた」とお示しになられました.

自分の発する感謝の言葉の中にさえ仏の働きを感じること.それが「他力」なのではないでしょうか.

5月29日, 2001年

こころ ころころ ころころで
六字のなかで こころころころ
これでたのしみ なむあみだぶつ
六字(ろくじ):「南無阿弥陀仏」の六字.

私たちの心はいつもコロコロ変わってしまいます. 才市さんも何かの折に,ほんにわしの心は当てにはならぬ, コロコロ変わってばかりだ, とため息をつきたくなったことがあったのでしょう. でも,そのため息がすぐに,「これで楽しみ」と転じられ, こんなユーモラスな,言葉遊びのような詩が口から出てきた.... たぶん,そんなところだろうと思われます.

どんなにコロコロ転がっても,阿弥陀如来の手から転げ落ちる心配は絶対にない, いや,当てにならぬ心を持っているからこそ阿弥陀様の方から手を差し伸べてくだる....そういう安心感が,この詩のような心のゆとりを生むのではないでしょうか.


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