入口口あい一覧 小目次口あい一覧 1> この頁
才市の詩
入り口に掲げた詩
2001年 1月- 2月

1月1日, 2001年

ひといき ひといきが
こん生(今生)の いとまごい
また出るいきが みらいかな
うれしや うれしや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

正月早々,「今生の暇乞い」なんて縁起でもないと,怒らないでくださいね. 正月早々,されこうべ(髑髏)を棹の先につけて持ち歩き, 「元旦は冥土の旅の一里塚」などと言った坊さん(一休さん)もいたのですから.
年が明けると「おめでとう」と言いますが,一休さんのこの歌は,その「おめでとう」が本物かどうかを試すリトマス試験紙ではないでしょうか.

「冥土の旅の一里塚」といわれて,縁起でもない,と顔をしかめるようでは本物の「おめでとう」ではない.「冥土の旅の一里塚」といわれてもなお,新しい年が巡ってきたことを喜ぶことがでるのなら本物の「おめでとう」である.あなたの「おめでとう」はどちらですか,と問い掛けられているように思えます.

才市さんはこの歌で,一年どころか,一息一息を今生の暇乞いと受けとめ,新たな一息一息を「うれしや うれしや」と味わっています. 私たちも,新しい年をこのようによろこびたいものです.

1月6日, 2001年

ねんぶつには かぎりなし
ねんぶつは こくう(虚空)のごとく
ねんぶつは せかいのごとく
ねんぶつは うみのうしほ(潮)のごとく
ねんぶつは やまのきかや(木茅)のごとく
ねんぶつは さいちがつみのごとくなり
ねんぶつは いまはわたしが まるでとられて

才市さんは虚空(こくう)という言葉をよく使います. 才市さんの師,梅田謙敬が龍樹の研究者であったこととも関係があると思われますが, ここでは深入りしません. とりあえずは,“世界(宇宙)全体”という意味に受け取っておけば,この詩は理解できるでしょう. 仏教では「色即是空」などと言いますが,そういう意味を含んだ世界の全体です.

そのような世界全体を満たす念仏は,罪深いこの私を救うためのものであり, その中に私も丸ごと包み込まれている. この私は,世界の中で孤立しているのではない. 念仏を仲立ちにして世界全体とつながっているのだ.....

そういう才市さんの喜びが, 詩の形が整っていることもあってか, すっと伝わってきます. この喜びの先に, 「十方みじんせかいも わしがもの」 (11月17日, 2000年の項を参照)という言葉が出てくるのでしょう.

1月13日, 2001年

ごかいさんさまも 恋しくば
なむあみだぶを とのうべし
わしも六字の内にこそ住む(と)
いいなさる
こんな さいちよい ありがたいよな
へ ありがたくもあったり
ありがとうも なかったり
それが六字の なむあみだぶつ
ごかいさんさま(御開山様):宗祖親鸞聖人
こんな さいちよい: 「これ,才市よ」という呼びかけ

才市さんは詩の中で阿弥陀如来と対話をしていることがよくあります. この歌もそうで,「ありがたいよな」までが如来さんの呼びかけ,そこから後が才市さんの答です.

ところで,親鸞聖人が六字,つまり「南無阿弥陀仏」の内に住むとはどういうことでしょうか.

私たちは,南無阿弥陀仏の働きによって浄土に生まれさせていただきます(往相回向=おうそうえこう.回向とは,阿弥陀如来の働きのこと).しかし,浄土に生まれた後,のんべんだらりと惰眠をむさぼっているわけではありません. 今度は私たち自身が衆生を救う身とならせていただいて,この世界に戻って来ます(還相廻向=げんそうえこう.これも阿弥陀如来の働きだから回向と言う).だから,浄土に往生された親鸞聖人も,私を救うために再びこの世界に戻っておいでになる.それが「南無阿弥陀仏」の六字であるという意味です.

才市さんのノートには,この詩に続いて次のような詩が記されています.

如来さんは善いもの持っとるよ
往相回向に還相廻向
六字名号 南無阿弥陀仏
これを この才市が貰うたよ

後半の才市さんの答の部分も味わい深い言葉ですが,それはまたの機会に.

1月28日, 2001年

わがこころ 見えもせず
臨終に 見える心が鬼となる
あさまし あさまし
あさましいのも うそよの うそのかわよの
かわ かわ うそのかわ うそのかわ
うそのかわ うそのかわ うそのかわ
あさまし あさまし
あさましいのも うそのかわ

才市さんに関する著作のある川上清吉氏が,偽悪は「二重底をもった偽善だ」とあるエッセイに書いておられました.“ワルの振りをしているけど本当はいい人なのよ”なんてセリフをテレビドラマなどでよく耳にしますが,偽悪というのは,そう言って欲しいための演技ではないか.そう言ってもらうことによって,“いい人”のもう一つ下にある本当の醜さを隠そうとしているのではないか.そして,自分自身をそうやって欺いているのではないか....そんな意味でしょう.

真宗では「罪悪深重の凡夫」という言い方をします.罪深く愚かな私,という意味です.“確かにその通りだなぁ”と思っているうちはいいのですが,すぐに,“そう反省できる自分は捨てものではない”という気持ちが生じてしまう.どこかで自分を肯定する気持ちがないと“反省”などはできないのかもしれません.そのような“反省”の行き着く先が「卑下慢」です.“これだけ深く反省のできるオレは,おまえなんかとは人間の格が違うのだ”....こう書くとなんか冗談のようですが,実際はそんなところではないでしょうか.

「あさましいのも 嘘よの 嘘の皮よの」とは,そのような自分の姿に気付かされたときの呟きです. どんな言葉も口にしたとたんに嘘になる.今,嘘といったのは嘘,そういう言葉もまた嘘,どこまでいっても嘘,という悲しみが「かわ かわ うそのかわ うそのかわ」という繰り返しになっているように感じられます.

2月 3日, 2001年

かかさんよい
煩悩が 連ろうて遊んでごせ言うが
どがあ しましょうかいな
お 連ろうて遊べよ
どがあ言うて 遊びましょうかいな
念仏申して 連ろうて遊べよ
連(つ)ろうて:一緒に
遊(あす)んでごせ:遊んでくれ
どがあしましょうかいな:どうしましょうか

私たちの迷いや欲望(煩悩)は,本当に厄介なものです. 追い払おうとしても,しつこく付きまとってきて振り払うことができません. そのような私たちを煩悩を持ったままで丸ごと救うのが南無阿弥陀仏の働きです. それを親鸞聖人は,「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」あるいは 「日光の雲霧に覆はるれども,雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし」 などとお示しになりました.

このように煩悩を持ったままで救われた私の姿を,才市さんはこの詩で, “念仏を称えながら煩悩と一緒に遊ぶ”と表現しています. 方言を交えた話言葉のせいでしょうか,どことなくユーモラスで, 念仏を称える者の,自由でのびやかな心持が感じられます.

2月 9日, 2001年

なむぶつは よいかがみ
法もみえるぞ 機もみえる
あさまし あさまし ありがたい
あみだのこころ みるかがみ
なむぶつ:「なむあみだぶつ」=阿弥陀如来

いま,この文章を読んでくださっている皆さんの “パソコン”にも時計が入っていると思います. ところが,この時計,コンピュータ内蔵だからさぞや正確だろうと思いきや,意外にいい加減,そこいらの時計と五十歩百歩のようです(掛け時計の方が“五十歩”のことさえある).そこで,コンピュータ内蔵時計を自動的に合わせてくれるソフトの登場となります. でも,どうやってそんなことができるのでしょうか.

実は,正確な時刻を知らせてくれる ところがインターネットにあります. そこに自動的に接続して内蔵時計を合わせるというのがこのソフトの仕掛です (当然,インターネットにつながっていないと使えない). 何のことはない,私たちが時報を聞いて時計を合わせるのと同じことです. 考えてみれば当たり前の話ですね. いくら“コンピュータ”でも,正確な時計と比べない限り, 自分の時計が合ってるかどうかは分からないのです.

最近では家のなかでも至るところに時計があります. そういう時計がお互いに合っているかどうかは家の中で確かめることができる. そして,食い違いがあれば,一番確からしい時計に合わせることもできます. でも,その一番確からしい時計が狂っていたらどうでしょう. これはもう家の中の時計を見ているだけでは確かめようがありません. それにもかかわらず,「うちにある時計は全部同じ時刻を指している.だから うちの時計は正確だ」と言い張る人がいたらどうでしょうか.

しかし,私たちは同じようなことを平気で言い張ってはいないでしょうか. “己の良心に照らしてやましいところはない”というやつです. 確かにこれは立派なことです. 家中の時計が同じ時刻を指しているようなもので, 時計がきちんと管理されていることは事実です. でも,その良心の正しさは...?  結局,時計と同じことです.自分の外にある,絶対に確かな基準と照らし合わせない限り,いくら“反省”してみても自分の本当の姿は分からないのです.

阿弥陀如来は,いわば時報のような絶対確かな真理の仏です.南無阿弥陀仏を称えることによって,阿弥陀如来つまり真理(法)が見えると共に,そこに写し出された私たち(機)の真実の姿が見えるのです.


入口口あい一覧 小目次口あい一覧 1> この頁     前頁   次頁