むかしは ありがたいことたよりにおもい
なんともないこと ちからをおとし
いまは あろうがあるまいが
ごおんうれしや なむあみだぶつ
私たちの心などは当てになりません.それなのに, 「ありがたい」と思うのは信心が深い証(あかし)である, と自分の心を当てにしてしまう. そして,ちょっと気分が変わるとたちまち不安に陥いる....そんな気まぐれで頼りない私に,常変わりなく慈悲の光を注ぎ続けてくださるのが阿弥陀如来だったのでした.
『歎異抄』の有名な一条(第9条:念仏しても踊躍歓喜の心が起こらないのはどうしたことか...)が思い起こされます.
よくきいた きいたこころはたまにきず
りょうげたのんで みだをたのまん
りょうげ(了解): 教えを理解・納得すること
真宗の基本は聞くこと(聞法)だといわれます.
ところが,熱心に聞法を重ねると,つい,“自分はこれだけ聞いたから,これだけ深く理解したから”と,自分の努力・理解力を頼みにしてしまいます.
私がどれ程までに自力の心に捕われているか.それを痛切に感じさせる歌です.
しゃばも浄土も みな一つ
十方みじんせかいも わしがもの
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
しゃば(娑婆): この世.われわれが暮らしているこの世界.
十方: 八方に上下を加えたもの. “四方八方”と同じように,あらゆる向きを表わす.
みじん(微塵): こまかな塵(のようにたくさんあるもの).
宇宙には数知れぬ銀河系,小宇宙があり,その銀河系の中には,私たちの太陽と同じような恒星がたくさんあります.仏教では,無数の世界を擁するこの広大な宇宙を“十方微塵世界”と言い表わしてきました.宙に舞う細かな塵の如く,多数の世界がすべての方角に広がっているという意味です.
南無阿弥陀仏の呼び声は,この広大な宇宙全体に響き渡ります.そこには,娑婆と浄土の区別もありません.その南無阿弥陀仏の声に唱和するとき,私の目の前には広々とした世界が開けて行く....そんな喜びを感じさせる壮大な歌です.
うき(憂き)ことも あらばあれ
みのりのかぜ(み法の風)に かたりゃすま(勝てはすまい)
みのり(み法): 仏法
「念仏は無碍(むげ)の一道なり」(『歎異抄』)と言われます.「碍」とは障碍(しょうがい:障害)のことですから,念仏すれば,生きて行く上での障碍物がなくなる,ということです.
ただし,“無病息災,商売繁盛”ということではありません.病気や商売の不振などにはそれなりの理由があるはずです(個人的な理由から,生物的,社会的原因などまで).それを“祈り”や“まじない”で避けようとするのは現実逃避に過ぎません.そして,どんなに努力しても,あるいは,どんなに社会が改善されても避けられない“不幸”もあります.
しかし,念仏する者は“不幸”に見舞われたときでも絶望しません.“不幸”に打ちひしがれることなく,自分のかけがいのない命をまっとうすることができる.つまり,いわゆる“不幸”が人生の本当の障碍にならないこと,それが「無碍」です.
そのような「無碍の大道」を歩ませて頂いている者が発する力強い言葉が「憂きこともあらばあれ」です.
なお,同じノートの少し後に,次のような詩が記されています.
うきことも あらばあれ みのりのじひ(み法の慈悲)に かたりゃすま
よろこびは まい(舞い)もせず をとり(踊り)もせず
うたがいとられて これがよろこび
なもあみだぶつ なもあみだぶつ
“舞い上がるような喜び”だけが,本当に深い喜びであるとは限りません. いつも心の奥深くにあって,どんなときでも心を暖めてくれるような深い喜びもあります.
阿弥陀仏の救いに対する疑いが吹き払われたという才市さんの喜びは,「なもあみだぶつ」というつぶやきが低く,しかし,心の奥底から湧きあがってくるような喜びだったのです.もっとも,思わず舞い踊るようなことも,才市さんにはあったようですが.