「パスカルの賭け」の話を初めて聞いたのは,高校の授業かなにかで,要約された形でした.
1)もし神がいるなら,
(1a) 神を信じれば天国
(1b) 信じなければ地獄
2)神がいないなら,
(1a) 神を信じれば無
(1b) 信じなければ無
つまり,神を信じれば,天国か無,信じなければ地獄か無.だから,神を信じた方が良い.
なんとも合理的で単純明快な説明に感心したことを覚えています.
その後,『歎異鈔』で似た議論がなされているのを読みました.それを上に合わせて整理すると,
1) もし法然上人のお念仏の教えが本当なら
(1a) お念仏を称えればお浄土
(1b) お念仏を称えなければ地獄
2) もし法然上人のお念仏の教えが嘘なら
(2a) お念仏を称えれば地獄
(2b) お念仏を称えなければ地獄
つまり,お念仏を称えればお浄土か地獄,お念仏を称えなければ地獄.だから,お念仏を称えた方がチャンスがある・・・.
しかし,『歎異鈔』の言葉を読むと,このような整理はなんだか違う感じがします.お念仏を称えるかどうか,二つの選択肢を前にして,このような合理的考察によってお念仏の道を選んだ・・・そんなことではないような気がします.そうではなくて,地獄一定,もうお念仏以外の道はない,そんな切羽詰まった状況のなかで,お念仏の道を選んだ理由を合理的に説明するなら,というのがこの議論のように感じられました.
そこで,改めて「パスカルの賭け」に戻ると,パスカル自身は,上記のように明快に論じてはいませんでした.長々といろいろなことを論じていて,確率の期待値に関わるような議論もしています(そう言えば,パスカルは確率論の祖でしたね?).しかし,そこに至るまでの断章も合わせて読むと,パスカルも,神の存在に賭けるしかなかったのではないかと感じます.自身の態度決定のため確率論的な考察を行ったというよりも,神を信じるという結論はもう出ていて,それ以外の結論はありようがなくて,その結論を合理的に説明するために長々と確率論的な議論を行っている・・・そんな印象を受けました.
「パスカルの賭け」も親鸞の議論も,結論を導くためのものではなく,結論が出たあとの,理性に対する言い訳に過ぎない,ちょうど,合理的選択の後に誰かを好きになるのではなく,誰かを好きになった後に,理性に対する言い訳として,相手の美点を列挙するのと同じように・・・と言うと,信仰と恋愛を一緒くたにするなって顰蹙買いますか?
【補足】
パスカルの賭け:パスカル,松浪信三郎訳・注『パンセ(上)』(講談社文庫, 1976), p.376以降(断章418の一部).
なお,パンセにはこんな言葉もあります.
「単純な人々が推理によらずに信じるのを見て,驚いてはならない.神が・・・彼らの心情を信仰の方へ傾かせるのである.もし神が心情を傾かせるのでなければ,人は・・・信じはしないであろう.神が心情を傾かせるならば,人はただちに信じるであろう」(同,断章 380, p.350).
「心情を信仰の方へ傾かせる」神の働きが,『トリスタンとイソルデ』における「愛の媚薬」に相当するなんて言ったらクリスチャンの方に叱られるかな?
『歎異鈔』: 第2段.