蓮如さまは よい人よ
ご文章さまを こしらえて
これを才市が まるもらい
ご恩うれしや なむあみだぶつ
(才市,k1-02:057)
右は才市さんの御文章の一部です.右上欄外に才市さんの「これもわしが」という書き込みが見えます.「これもわしがために書かれた」あるいは,「これもわしがもろうた」という意味でしょう.他の章にも同様の書き込みがあるそうです.まさに,「才市がまるもらい」.一通一通を自分のために書かれたと味わっていた様子がうかがえます.
もちろん,蓮如上人は才市さんに宛てて御文章をお書きになったわけではありません.広く,門徒の方々に向かって書かれたのですが,それを才市さんは,「自分のために書かれた」と受け止めたわけです.才市さんには「ちゃんと うちねの《わたしのところの》如来さんでありました」という口あいがありますが,同じ受け止め方ですね.如来さんに(阿弥陀さま)に「うちの阿弥陀様」も「よその阿弥陀様」もありません.でも,やっぱり「うちの阿弥陀様」ですね.親鸞聖人に,阿弥陀様は「ひとえに親鸞一人がため」だったというご述懐がありますが,それに通じる味わいです.
因みに,親鸞聖人のこのご述懐をとらえて,阿弥陀様の救いを私物化するものだと批判しているのを読んだことがあります.まぁ,そういう理屈も成り立たないわけではありませんが・・・.
娘が小さい頃,保育所の運動会を見に行きました.小さな子供たちがグランドで駆け回っているのを見て,やっぱりうちの子が一番かわいいなぁと思いました.そんなことを思いながらふと横を見ると,他所のお母さんが自分の子に声援を送りながら一生懸命ヴィデオカメラを構えている.ああ,この人も,自分の子供が一番かわいいと思っているに違いない・・・そう思って,なんだかおかしかったのを覚えています.たくさんの保護者の方がグランドを取り囲んでいましたが,皆それぞれ,自分の所の子供が一番かわいいと思いながら応援しているのでしょうね.
客観的に見れば,自分の所の子供が一番かわいいとは限りません.そのことは重々承知していても,実際に自分の子を目の前にすると,やっぱり一番かわいいように見えてしまいます.まぁ,それはそれでいいじゃないですか.隣のお母さんもそう思っていることが分かっていて,それはそれでいいと言えるならば.
【補足】
才市,k1-02:057:楠恭編『妙好人才市の歌 全』の一, 第2ノート, 57番(p.103).引用に際して,用字などを読みやすく改ました.
「ちゃんと うちねの如来さんでありました」:この口あいは以前(2010年6月9日付)にご紹介しましたが,改めて,全体を掲げておきます(『ご恩うれしや』, pp.72--73).
お浄土は ひがしの門のいりくちに
如来さんは もんばんであります
さいちは きたか きたか
ようきた ようきた いうて
わしをほめなさる
ちゃんと うちねの《自分の家の》 如来さんでありました
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
ええたのしみだの
なむあみだぶつ
歴史学の方で「歴史の物語的叙述」を復活させようという主張を読んだことがります.もちろん,歴史小説を書けとか,歴史は作り話で良い,ということではありません.歴史研究があまりに細分化され,断片化され,歴史の意味が見えにくくなったことへの反省です.
NHKでこの春『100分で名著 歎異鈔』を放送していましたが,その最終回で,釈徹宗さんが,「物語」を,フィクションとか小説ということではなく,「意味の体系」,と定義した上で,こんなことをおっしゃっていました.
「この物語はわたしのためにこそあった」という物語に出会ったとき人は救われる.親鸞聖人の場合は,何千年にも渡って,この自分一人を救うがために,この物語は連綿と紡がれてきたという実感があったのだろう ---.
「私のための物語」という言い方に感銘を受けました.
以前、大好きなご講師が法話で「最近千手観音に凝っています」と言われ、千本ある手の二本は私に向かって合掌してみえますと教えていただきました。観音様はそうかもしれませんが、うちの阿弥陀様は千本全部私に向けて合掌して見えるのではと思います、そうしてもらわないと漏れ落ちてしまいそうですから。