才市ゃ 人間に 出いてもろうて
親にもろうた なむあみだぶを
出いて喜ぶ 心もろうて
もろたも他力 もろうたも他力
(才市さん, sd-18:013)
先日,あるお家の法事に参らせていただきました.お父上の50回忌という,なかなかご縁のないご法事です.ご導師(*)は近くのお寺さんですが,脇導師(*)として呼んでいいただきました.そのご法話のなかで,こんな譬えを聴聞しました.
お釈迦様がガンジス河のほとりを歩いているとき,阿難尊者に,砂を一握り掬い取るようにおっしゃった.そして,「手の上に掬い取られた砂の数は,砂全部に比べわずかなものである.人間に生まれるということはこの一握りの砂の中に入るくらい稀なことである.さらに,人に生まれたことの尊さに気付きそれを喜ぶものは,爪の先に掬う砂くらい稀である」とおっしゃった・・・.
先日,才市さんの「法を聞くにも よい身を貰うて わたしゃ仕合せ」という口あいについて,「私の身で聞けるような形で法を説いてくださって」とひっくり返して味わえるだろうなどと書きました.
その直後にこのお話を聞かせていただき,偶然とはいえ,そんな捻くったようなことを言わずに,素直に聞いたらどうか,と言われたような気がしました.ちょっと反省.
「人身受け難し,いますでに受く.仏法聞き難し,いますでに聞く・・・」(三帰依文)
【補足】
才市さん, sd-18:013は,鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート18の13番(p.293).用字,改行などを読みやすく改ました.
ところで,この口あいの「親」とは誰のことでしょう.才市さんは,まず間違いなく阿弥陀さまのことを言っていますが,これを実際の親と味わってもいいような気もします.もちろん,その背後に阿弥陀様の働きを感じて,ですが(と,また,素直でない理屈を捏ねる・・・).
* この場合,「導師」,「脇導師」という呼び名は,多分不適切です.因みにこの近辺では,報恩講などにおいでいただいたご講師の先生を「ごどおっさん」(ご導師さん)とお呼びすることがあります.これも本当は間違いなのでしょう.