わしのこころの あさましの
鳴子になれて 邪見 日暮し
あさましと 口には言えど
いまもこころに
山の門跡さまを 尊むもなし
あさまし あさまし あさましや
親にはなれてみりゃ邪見
親にとられて なむあみだぶつ
(『慚愧と歓喜』, pp.110--111)
『蓮如上人御一代記聞書』を通して『御文章』を味わう場合と,そうでない場合とでは,蓮如様の印象が随分違ってくるが,才市さんは,『聞書』を通して『御文章』を味わっていた,という話を以前にご紹介しました.
上の口あいも,才市さんが『聞書』のことを聴聞していた一つの例になるかもしれません.
蓮如上人は、
おどろかす かひこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる群がる雀を驚かして追いはらう鳴子の音も、今では効き目がなくなった。耳なれした雀たちは、平気で鳴子に乗っている.
という歌をお引きになって、「人はみな耳なれ雀になっている 」 と折りにふれて仰せになりました。
(蓮如上人『聞書』末 174)
さて,蓮如上人のことお言葉を引いた後は,金子みすずの「不思議」という詩を引用したくなりますが,長くなりますので,もっと短い,しかし,同じように有名な詩を引用します.
薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花咲ク。/ナニゴトノ不思議ナケレド。
(北原白秋)
【補足】
蓮如上人『聞書』末 174:『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』(本願寺出版, 1999), p.111--112.
『真宗聖典注釈版』(1989)では p.1286.
一、前々住上人(蓮如)、「おどろかすかひこそなけれ村雀耳なれぬればなるこにぞのる」、この歌を御引きありて折々仰せられ候ふ。ただ人はみな耳なれ雀なりと仰せられしと 云々。
北原白秋: テキストはこちらからお借りしました.