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「お念仏を称えると,お浄土に蓮の華が生じる」
旧ブログ 2013年2月11日 (月)

アーナンダよ,沙羅双樹が,時ならぬのに花が咲き,満開となった.それらは,修行完成者に供養するために,修行完成者の体にふりかかり,降り注ぎ,散り注いだ.・・・しかし,アーナンダよ,修行完成者は,このようなことで敬われ,重んぜられ,尊ばれ,供養され,尊敬されるのではない.アーナンダよ,・・・理法にしたがって実践し,正しく実践して,法にしたがっている者こそ,修行完成者を敬い,重んじ,尊び,尊敬し,最上の供養によって供養しているのである.
(『ブッダ最期の旅』)

 前回ご紹介した中村元博士が訳されたお経が岩波文庫に何冊も収められていますが,この『ブッダ最期の旅』もその一つです(このblogでも,以前ちょっとご紹介したことがあったと思います).この引用は,最後の方,釈尊が沙羅双樹の元に横たわったときの場面を描いた部分で,引用中の「修行完成者」とは,釈尊,仏のことです.
 この言葉は,直接には出家して釈尊の元で修行している人に向かって言われたことですので,私たちの場合は,ちょっと,“翻訳”が必要です.私たちの場合だと,修行完成者を尊敬するとは,仏,つまり阿弥陀様を敬うということであり,阿弥陀さまのみ教えを実践するということになるでしょう.阿弥陀さまのみ教えを実践するとは,お念仏を称えながら生きて行くことです.つまり,お念仏を称えることは,仏さまに満開の花をお供えし花びらを降りかけるにも増して,仏さまを敬うことであるということになると思います.
    「お念仏を称えると,お浄土に蓮の華が生じる」ということばがお経にあるそうです.この生涯を終えるとき,その蓮の華の台が迎えに来てくれる・・・.つまり,お念仏の働きによって往生させていただくということを表わした言葉のようですが,この言葉を,お念仏を称えることは,お浄土に蓮の華をお供えすることだと味わっている文を読んだ覚えがあります.上の釈尊の言葉と重ね合わせると,そういう味わい方もいいなぁと思いました.

【補足】
『ブッダ最期の旅』:中村元 訳 『ブッダ最期の旅』, 岩波文庫, pp.126--127(改訂版が出ていて,そちらだとpp.134--135です).

「この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふ〉と」
(『真宗聖典 注釈版』p.172.)

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