わしの生まれは 地獄の生まれ
わたしゃ旅犬 尾をすべて《すぼめ》
浮き世を過ごす なむあみだぶと
(鈴木, pp.259 -- 230)
廊下の窓から撮った写真です.
柵で囲まれたテニスコートのようなものは何だと思われますか.何かのコートにしては狭すぎます.でも土も入れてあって単なる空き地とも思えません.周りの人に尋ねても不明.窓のほぼ正面に見えるので,長い間,気になっていましたが,気候が良くなって謎が解けました.なんと,犬の運動場でした.保健所に保護(捕獲?)された犬がときどき遊んでいます.冬の間は寒くてお休みしていたようです.
運動場まで作ってもらって,最近の犬は恵まれている・・・わけではないですね,多分.犬としては,運動場なんていらないから,そこらへんを自由に歩きたいというところでしょう.私が子どもの頃は,繋がれていない飼い犬や野良犬やらがそこいらを自由に歩き回っていました.ですから,“飼い犬は繋がれて当然,そうでない犬は野良犬であり,捕獲されて当然”というのは人の身勝手と感じが少しあります(もちろん,現在では通用しない感覚でしょうが).
ただ,自由な野良犬も,雨の日などはさすがに惨めです.ずぶ濡れになり,すぼめた尻尾からしずくをポタポタ垂らしながら歩いている・・・.才市さんの口合いを見て,時節がら,雨の中をとぼとぼ歩く野良犬の姿を思い出しました.才市さんも,そんな野良犬を見て,その姿に自分を重ねたのでしょうか.
地獄に生まれて家もなく,この娑婆世界をとぼとぼ旅してあるく惨めな野良犬.でも,そんな私だからこそ阿弥陀さまは寄り添ってくださるのでした.
【補足】
鈴木:鈴木大拙(坂東, 清水 訳)『神秘主義』(岩波, 2004), pp.259 -- 230.
出先からの投稿です.いつもの本が手元にないので,才市さんの歌は上記から引用しました.ただし,表記を適当に改めたのはいつも通りです.訳者注記によると,この歌は次にあるそうです.
楠恭編『妙好人才市の歌 全』の一, p.215.
犬の世界も近来激変していますね。野良犬なんてまず見ることがありませんし、繋がれている飼い犬も激減しています。さて、どこにと言えば
家の中で自由に走り回り、席も人間よりいいものがあたえられていることもしばしばです。果たして昔の野良犬と今の飼い犬ではどちらが幸せなのかわかりません。
野良犬という言葉で子供の頃に母親から「エッタに連れていってもらうぞ!」とよく脅されたことを思い出しました。野良犬を捕獲する人をエッタ
と呼んでいましたが、後に 穢多 であることを知り、部落の人たちを指す差別用語であることも知りました。知らず知らずに植え付けられる差別意識ですが、植え付けられるというより元来持ち合わせていたものを
呼び起こされたということでしょう。地獄の生まれであることを自覚して
悩める旅の野良犬を棄てない、阿弥陀さんに感謝しよっと!!