さぁ,これでお別れだ.もう行かねばならぬ.私は死ぬために.諸君は生きるために.しかし,いずれが幸せであるか,それは誰にも分からない.
(『ソクラテスの弁明』)
私の近状をご存知の方が驚かれるといけないので,慌てて付け加えると,私に特に大きな変化があったわけではありません.状況は相変わらず,今,一時帰宅中です.
さて,『ソクラテスの弁明』ですが,高校のときに読んだ感想は,戸惑いのような,何だか良く判らないというところでした(^^;このことについては,憲法記念日に書こうかとおもっています).ただ,この結び言葉は印象に残りました.
それからずっと後,映画『天平の甍』をTVで見ました.その中に,記憶に残る別れの場面が二つありました.その一つは,天竺に去っていく僧と,中国に留まる僧の別れです.
日本にお経を持ち帰るために中国に派遣された僧の一人が,仏教を本当に学ぶために,インドに行くことを決意します.これは,国家から託された職務・義務を放棄することで,多分,犯罪行為です.しかも,インドに無事に行き着けるかどうかさえも分かりません.日本に戻ることは二度とないでしょう.それでも,すべてを投げ捨ててインドに向かって去って行きます.
他方,それを見送る僧は,日本へ仏典を持ち帰るという自分の義務を優先し,中国に留まる道を選びます.真理を求めてインドへと続く砂漠に去っていく僧に共感しながらも,日本に仏教を広めることこそ,仏のみ心に叶うものだと考えて.
この二人が,互いに,相手の決断が正しいものかもしれないと思いながらも,自分自身の道を歩み,別れてゆくという場面を見て,もう一つの別れの場面,ちょうどその頃読んだ本に引用されてたある場面を思い出しました.
・・・それはラビ・メイール・・・の話である.・・・ある安息日にメイールはその師エリシャと例によって深遠な討論を行なっていた.師は異端であるのでろばにのっていたが,・・・メイールは[異端ではないのでロバには乗らず]師の側を歩きながら,その異端の口から出てくる知恵の言葉に熱心に耳を傾けていた.そのために自分と師エリシャが安息日にユダヤ人の越えるべきではないと定められていた村落の境界線にやってきていることには気づかなかった.この偉大な異教徒は正統ユダヤ教を信ずる弟子をふりかえっていった.「みなさい.われわれは境界まできてしまった.ここで別れなきゃならない.これ以上私についてきてはいけない.かえりなさい.」そしてラビ・メイールはユダヤ人村に帰り,この異端の師はユダヤ人村の境界を越えてろばを進めていったのである
(ドイッチャー)
最初のソクラテスの言葉は死別の挨拶です.二つ目は,この世界では二度と会うことのない別れ,三つ目は,再会の可能性がなくもない別れです.でも,いずれも,境界を越える者と境界の内に留まる者との別れであり,同じような感じがします.
別の言い方をすれば,ソクラテスは,死別を,そうでない別れと区別せずに語っているといってもいいかもしれません.ソクラテスの別れの言葉が印象的なのはそのせいでしょうか.
【補足】
『ソクラテスの弁明』:結びの部分です.高校のときに読んだ文庫本(角川文庫,山本光雄訳, p.99)を引っ張り出してみると,多少言葉が違っていましたが,記憶している形で引用しました.
ドイッチャー:中村雄二郎, 山口昌男『知の旅への誘い』岩波新書, 1981, pp.112--113(山口執筆部分)に,アイザック・ドイッチャー(『非ユダヤ人的ユダヤ人』鈴木一郎訳, 岩波新書)から引用されている一節です.引用中の「・・・」はjunkによる省略,[ ]は,junkによる補足です.この逸話自体は,ユダヤ教聖典注解書に記されているものをドイッチャーが引用・紹介しているらしいので,私の引用はマゴマゴ引きということになります.つまり,注解書 → ドイッチャー(引用) → 山口(孫引き) → junk(マゴマゴ引き).