わたしゃ困ったことがある
胸に歓喜のあげたとき
これを書くことできません
なむあみだぶとゆうて書け
(楠, 一, p.97)
万葉集にこんな東歌があるそうです(卷14 3373).
多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの児の ここだ愛《かな》しき
この和歌を聞いたのは,中学校の国語の時間だったように思います.説明を聞いて,何だ,この歌は,と思いました.「多摩川に さらす手作り」は「さらさらに」を導くための序詞だとか.そうすると,この歌の実質は,「どうして,こんなにも,こんなにも愛しいのだろう」という単純な詠嘆だけです.それを序詞で飾っただけの技巧に走った歌,そう受け取ってしまったのです.
なんと申しましょうか,昔はものを思わざりけりってとこですね.愛しい人を目の前にしたとき,人は言葉を失います.ただ,「愛しい」というのが精一杯でしょう.それを敢て歌に読めといわれたら,序詞か何かで埋めるしかない.技巧に走ったのは,頭で考えて作ったからではなく,愛しさが心に溢れたからでした.ずっと後になってそのことに気づき,これは私の好きな歌になりました.
さて,才市さんの口あいですが,胸に歓喜が湧き上がったとき,それを表わす言葉はありません.ただ,南無阿弥陀仏と書くしかない.才市さんは書くことについて歌っていますが,口にする場合も同じですね.
【補足】
楠, 一, p.97:楠恭編『妙好人才市の歌 全』の一, p.97(一の第2ノート, 42番)
理系人間の私は『万葉集』なんか読んだことありません.学校の国語の時間に習ったものと,何かに引用してあったものをいくつか知っている程度です.その中から愛唱歌(?)をいくつか・・・.
信濃なる 千曲の川のさざれ石《し》も 君し踏みてば 玉と拾はむ
筑波嶺の さ百合《ゆる》の花の 夜床《ゆどこ》にも 愛しき妹ぞ 昼も愛しけ
君が行く 道の長手を繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
あは,恋の歌ばっかりだ(^^;).