わたしゃ しあわせ
御開山さまと 一味での
ご恩うれしや なむあみだぶつ
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(楠, 二, p.64)
今年も例年通り,報恩講をお勤めします.どうぞ,お誘いあわせの上,お参りください.
ご導師:後地 光善寺 相山 一善 師
10月12日(水)午後 1時
13日(木)朝6時半
(昼 おとき)
午後1時
さて,地元の方などへの報恩講のご案内には才市さんの口あいを添えることが多いのですが,今年は冒頭の口あいにしました.
「一味」というと,普通は“仲間”それも,“悪事の仲間”という感じですが,もちろんここでは,信心を等しくする仲間ということですね.「正信偈」に
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
(凡夫も聖者も,五逆のものも謗法のものも,みな本願海に入れば
どの川の水も海に入ると一つの味になるように,等しく救われる)
とある「一味」で,同等,平等という含みがあります(というか,同等,平等の方が本来の意味で,そこから仲間という意味が派生したのでしょう,多分).
“あの御開山さま(親鸞聖人)と同じ”だなんて,不敬罪・・・?
親鸞聖人が,法然上人の元にいらしたとき,“師,法然聖人の信心と自分の信心とは等しい”とおっしゃって物議をかもしたという話があります(『御伝鈔』 第7段).「御開山さまと一味での」は,その変奏ですね.
【補足】
楠, 二, p.64:楠恭 編『妙好人才市の歌 全』の二, p.64(二の第2ノート, 127番).
なお,『妙好人才市の歌 全』では,「いちみ」に「一身」の字が当てられていますが,『検索才市さん』(朝枝俊円 編, 海風学舎製作, 瑞光寺, 2005)に従って「一味」としました.
『御伝鈔』 上 第7段抜粋:
往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり
(『真宗聖典 注釈版』, p.1050.