突然ですが,『ロメオとジュリエット』の有名なバルコニーの場面から,ジュリエットの科白です.ロメオが,宿敵モンタギュー家の一員であることを嘆いて:
ああ,ロメオ,ロメオ! なんだって,あなたはロメオなの.・・・お名前だけが私の仇.モンタギューのお人でなくとも,あなたはあなた.モンタギューがなんでしょう? 手でも,足でも,腕でも,顔でもない,・・・いったい,名がなんでしょう? なんと呼ばれようと,バラはバラ,そのかぐわしさに変わりはないものを・・・.あなたの身でもない名を捨てて,かわりに私の身も心もお納めください.
このジュリエットの科白を引いて,こんなことを言った人がいます.
ことばは,本来,一種の記号である.そして,ひとつひとつの記号が,なにをさすかはその言語の習慣にすぎないものである.記号は,あくまで記号であって,それが結びつく対象とは別ものである.ところが,かなしいことに,人はともすると,記号にすぎないことばと,そのことばが結びつくことになっている実体とを,同一視してしまうのである.ジュリエットが見抜いた真理は,なんでもないようで,なかなかたいへんなことなのである.
(郡司, pp.21--23)
恋する乙女の独白も,言語学者の手にかかるとなかなかたいへんなことになるようで・・・(^^).
あるいは阿弥陀といひ,あるいは無碍光と申し,御名異なりといへども心は一つなり.
(『ご消息』13 蓮位添状)
インドでの呼び名の音を写して適当な漢字を当てたのが「阿弥陀」,意味を取って漢字に訳したのが「無碍光」だから,どちらも同じことだということですが,これを読んだとき,「なんと呼ばれようとバラはバラ」というジュリエットの科白を思い出してしまいました(私の手にかかると,とんでもない飛び方をするようで・・・ ^ ^;).
【補足】
郡司:郡司利男『国語笑字典』(光文社, 1963).著者は,構造言語学の大学の先生だったそうです(ずっと昔,新聞で訃報を見ました).
因みに,姓名判断なんぞも,記号に過ぎない言葉と,それが指し示す実体とを同一視する誤りの例だそうです.フム・・・,「阿弥陀」,「無碍光」,「無量寿」その他,阿弥陀さまのいろいろな呼び方について画数を勘定し,姓名判断してみるとおもしろいかも.「南無」と「帰命」とそれぞれについて,もっとも相性がいいのはこの呼び方だ~~っ! 悪い冗談です m(_ _)m.
『ご消息』13 蓮位添状:引用は,『真宗聖典 注釈版』pp.766.
この少し後(p.767)に,覚信房が
「をはりのとき,南無阿弥陀仏,南無無碍光如来,南無不可思議光如来ととなへられて,手をくみてしづかにをはられて候ひし」
ことが記されています.御名は異なるといえども心は一つ,三つともお念仏だということですね.
このご消息については,霊山勝海『親鸞聖人御消息 聖典セミナー』(本願寺, 2006).特に,pp.175--176を参照しました.
なお,この「ご消息13」の本文は,慶信房が自分の領解について書き送ったものに親鸞聖人が添削を加えられたものです.どのように添削を加えられたかは,この『聖典セミナー』pp.169--170に示してありますが,非常に細かい訂正が入っています.親鸞聖人は似た意味の漢字を叮嚀に使い分けていらっしゃるそうですし,大事なことは言葉自体ではなくそれが指し示しているものとはいえ(だからこそ),言葉をおろそかにしてはいけないわけです.姓名判断なんてでたらめだからといって,無茶な名前をつけていいというものではないのと同じこと?