ああ,あれがそうだったのかっていうふうに,そのときの瞬間というのではなくて,過去的にわかる.変わってしまったということでわかるんです.変わる瞬間は意識されない.後で気がついて,かわってしまったな,と.
(大峯, p.139)
ここで「過去的にわかる」と言われていることは“ああ,今から思うと,あれが転機だったのね”というわかり方で,これは,だれでも経験があることですね.
さて,ここで,ユーミンの「やさしさに包まれたなら」の話.この歌の中に,「カーテンを開いて,静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら,きっと,目に映るすべてのことはメッセージ」という歌詞があります.これについて,次のような文を読んだことあがります.
・・・このとき注意すべきは、聞くべきメッセージの運び手がトントンとドアをたたいて、そして心のドアを開けるという順番ではない、ということである。まず、ドアを開ける。カーテンを開ける、庭に出る、ということが先にあるということである。そうすると、「目に映る全てのものはメッセージ」となって、届くのである。
誰かからメッセージが私宛に発せられてそれを私が受け取るというシークェンシャルな流れではない。私が心を開いて「目に映る全てのものはメッセージ」と受け取ることで、メッセージが既に発せられていたという過去が形成されるという時間的逆転が起こっているのである。
(大谷大学文学部『哲学科教員ブログ』, このページ)
「過去的にわかる」のは,「変わってしまったということでわかる」わけです.とすれば,“メッセージを受け取ることで,メッセージが既に発せられていたという過去が形成される”というのも,同じことを別の局面から言ったことでしょう(と,さらりと流しておきます^-^;).
ここで再び大峰師からの引用です.
・・・一切衆生を救うと言う仏の言葉には嘘がないはずだから,この世で救われなくたって,いつの日にか(p.133).・・・この世で救えなかったら,また次の世でも救うぞと.・・・どんなに長い時間がかかったって,絶対に見捨てやしないと.・・・そのことに気づくと,救いが起こってくる.この世で救われなかったらダメじゃないか,この世で救われることこそが大事だということと,いつかは救われるということとは正反対じゃないかというふうにふつうは思うけど,実は同じことなんですよ(p.135).
つまり,“いつの日にか救われる”と将来のことが,今,分かると,一転して,“すでに救われていたという過去が形成される”わけです.
こういう言い方をした場合,“いつの日にか救われる”はお浄土へ生まれさせていただくこと,“すでに救われていた”は阿弥陀さまに摂取されていたこと,分けて考えるとすっきりと分かりやすいし,それはそれで間違いではないのですが,でも,あまりはっきり分けてしまうと,何かちょっと違う感じ・・・.
【補足】
大峯:大峯顯,池田晶子『君自身に還れ:知と信を巡る対話』(本願寺出版, 2007).引用はいずれも大峯師の発言から.
引用だらけで,わけのわからぬ記事になってしまいました.コメントで何度か大峯師のお名前を挙げていただいたので,大峯師の本について書いてみましたが,実は自分自身でもまだ十分にこなれていないのです.上の記事で「さらりと流しておきます」と書いたところが,実はさらりと流れてくれない.大峯師の本はこれしか読んでいませんが,もう少し流れがよくなるまで,他の本はちょっとペンディングというところです.
流れを良くするための覚書二つ.
“聴かなきゃ始まらない,聴かなきゃ始まらないけど,聞こえてみたら聴いたのではなかった,聞こえていたのだった”(森田真円師).これはよくわかりますね.当blogの2010.4.18の記事,2010.02.03の記事参照).
「個人の現実的世界は,物質的事実と感情的価値とが区別できないように結合している複合的な世界である」(W. ジェイムズ,桝田 啓三郎 訳『宗教的経験の諸相 上』岩波文庫, 1982, p.229).これも,私個人にとって・・・ならよくわかるのですが,つい,でも客観的世界は・・・などと考えてしまいます.その辺で引っかかるてるんでしょうね.理系の通幣?
因みに「十劫秘事」という異安心もありましたね.気をつけなきゃ.