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[才市] 虚空から わしに響くが 南無阿弥陀仏
旧ブログ 2010年7月18日 (日)

ねんぶつの でぐちがしれぬ
こくうから わしにひびくが
なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』, p.151)

 『アマデウス』という映画を覚えていらっしゃいますか(あるいは,ご存知ですか).傲慢なガキと言いたくなるようなモーツァルトが登場して,その“ケケケ”という,およそ優雅ではない笑い方が,世のモーツァルト・ファンにショックを与えたというあの映画です・・・と言いながら,実は,私は見ていません(と思います.どうも,記憶があいまい).ただ,原作になった戯曲の方を図書館で借りて読みました.舞台の方もずいぶん評判になり,その評判に釣られてだったと思います(でも,釣られて良かった).
 この物語の主人公は(戯曲を読んだ限りでは),モーツァルトではなく,作曲家サリエリのように感じました.彼はこの中で,努力型の秀才として描かれています.異国で苦労しながら,一歩一歩音楽家としての名声を高めていき,ついに,音楽界における頂点を極める.そんな彼の前に神童モーツァルトが現われます.モーツァルトは,社交界でわがまま一杯に振舞いながら,美しい音楽を苦も無く次々と生み出していく.サリエリは嫉妬に苦しみます.しかも皮肉なことにサリエリの耳は確かで,自分の音楽よりモーツァルトの音楽が優れていることを誰よりも知っていました.あんなに下品な人間からかくも美しい天上の音楽が生まれてくる,それが彼の怒りをいっそう掻き立てて・・・という物語でした.そのサリエリが,終わりの方で次のような言葉を漏らしています.

人は,所詮は神の吹く葦笛に過ぎないのかもしれない

 華やかに見えたモーツァルトも,最期は死の予感に怯えながら,短い生涯をさびしく終えました.彼も,結局は,神の道具でしかなかったということでしょうか.

 才市さんの「虚空からわしに響くがなむあみだぶつ」も,「神の葦笛」とほぼ同じことを言っています.自分の称える「なむあみだぶつ」は,実は自分が称えているのではない,阿弥陀如来の発したそれを響かせているだけだ,と.
 先日,コメントで“いっこく堂”を教えていただき,YouTubeで久しぶりに腹話術を見ました.確かに,腹話術の人形,阿弥陀如来の共鳴体,神の葦笛は同じことの三つの比喩といえます.しかし,サリエリの言葉が深い悲しみとあきらめの果てに発せられたのに対し,才市さんの歌はよろこびの歌です.宇宙と一体になったような感動を覚えます.この違いはどこから来るのでしょうか.神の葦笛と聞いて悲しみとあきらめを感じるのは,驕慢のなせるわざと言っていいのでしょうか? まだ,自分の中で十分にこなれていませんが,ちょうどいい機会ですので書いてみました.ご教示ないしは突っ込みをよろしく.

【補足】Wikipediaから.
ピーター・シェーファー作,江守徹 訳『アマデウス』.日本初演は1982年(原作は1979年).映画は1984年(日本公開1985年).
アントニオ・サリエリ 1750--1825年.イタリア生まれ,ウィーン宮廷作曲家・宮廷楽長.ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756--1791年.

 戯曲では,「風評」を代弁する「風」という二人の人物が登場するのも面白かったことを覚えています.
 なお,戯曲,映画とも,サリエリ,モーツァルトの実像を描いているかどうかは議論があるところです.また,30年近く前の記憶を元に書いています.したがって引用したサリエリの言葉も,実際にサリエリがそんなことを言ったかどうかはもちろん,戯曲にこういう台詞が本当にあったかどうかさえ保障しかねますので悪しからず(^-^;).

コメント

たまたまonsaiさんのブログにも今日同じ事をコメントで書きました。
知り合いの住職が本山の参務(だったかな?宗務総長の配下)をされていたとき、外地別院からの参拝団に対して挨拶をする役目をされたそうです。英語にあまり堪能でない(失礼)ので、日本語ではなし、最後に一言だけ英語で みなさんご一緒にお念仏いたしましょう と云おうとされたそうで、 Let's say ONENBUTU で良いかと外地の開教師に尋ねたところ。 Let's receive ONENBUTU と訂正されたそうです。英語にすると
スッキリ理解できる場合がありますね。
仏教伝道協会の「仏教聖典」にこんなお釈迦様の言葉が載っていました。「子牛が母牛から離れないように、一度法を聞いた者は法から離れることはない、なぜなら法を聞くことは楽しいからである」(記憶不如意)
サリエリは音楽を心底楽しんでいなかったのかな?一方才市さんは
楽しくてしようが無かったと思います。法話というものは聞き方にもよりますが、耳に心に痛いはずですが、また聞きたくなるのが不思議ですね。

釈破旬さな
 ウン十年の疑問氷解! そうですね,そうだったんだ.ありがとうございました.

>サリエリは音楽を心底楽しんでいなかったのかな?一方才市さんは

 たぶん,サリエリも好きで音楽の道に入ったのでしょう.でも,苦労しているうちに,音楽が立身出世の道具になってしまった.モーツァルトへの嫉妬には,自分の地位が脅かされ,名声が傷つくという恐れもあったのでしょう.だから,天上の音楽を心底楽しむことができなかった.
 モーツァルトの方は,父親が“神童”モーツァルトの売り出しに熱心だったという話を聞いた覚えがあります.また,音楽家の生計が,パトロンから市場へ移行し始めた時代だったはず.だから,彼も単に音楽を楽しむだけでは済まなかった.
 二人とも,神の葦笛などとは言っておれない状況,“このオレの才能”だと主張せざるを得ない状況にいて音楽そのものを楽しめなかったのですね.
 言われてみれば明白に思えるのですが,でも,ウン十年気がつきませんでした.有り難うございました.

 “Let's receive ONENBUTU”も初めて聞かせていただきました.日常的にこういう言い方をしていると,聞き方も違ってくるような気がします.

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