教化きくのに うわ(の空)で きくな
わすれた(の)と ききながすのは ちがいます
法をきくとき しっかりきけよ
わすれたには あじがのこるぞ
ききながしには あじがない
[後略]
(『ご恩うれしや』pp.14--15)
ご法話で聞いたのか,何かで読んだのか,仏教の話だったのかもさえ忘れてしまいましたが,次のようなたとえを聞いたことがあります.
聞いて忘れるのは,落ち葉がやがて姿を消すようなもの.土の上には何も残っていなくても,腐葉土ができている.いくら聞いても忘れてばかりと嘆くことはない.たくさん聞いてたくさん忘れればよい.豊かな腐葉土ができているだろう.
【補足】 この歌は少し長めで,全体は次の通りです.
教化きくのに うわ(の空で)できくな
わすれた(の)と ききながすのは ちがいます
法をきくとき しっかりきけよ
わすれたには あじがのこるぞ
ききながしには あじがない
それじゃ いつまできいても だめよ
こころ(を) ちしき《知識》の口にもっていけ
みみを ちしきの口にもっていけ
うわできいても だめよ だめよ
こころに ぶつ《仏》が入りてをることをきくのよ
きいてみれば なむあみだぶつ
これが わしを たすけるほとけ
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』pp.14--15)
YGM様 お読みくださり有り難うございます.
「そのまま聞いて味わえば・・・」
ふと,歎異抄の
「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば、念仏も申され候ふ。これ自然なり」
という(唯円さんの?)お言葉を思い出しました.
仏法重金属説が私の持論です。
たとえはあまりよくありませんが、仏法は水銀やカドミウムのようなもので、一度(ききながしでなく一度はしっかり受け止めて)摂取すると体内のどこかに蓄積されて、それがつもりつもるもるので、公害の重金属のようなものだとおもいます。重金属は病気の種になりますが、仏法は浄土に生まれる種になってくれますね。
才市さんの法要にお邪魔するつもりでいましたが、直前に連れ合い殿が検査入院することに、へたするとそのまま
病院の住人になるかもしれないので、今年は見送りになる模様です。お会いしたかったですが残念です。
組の勉強会「こころの元気塾」で島根方面団体参拝を企画するように言われていますので、実現すれば年内にでも
石見訪問が実現するかもしれません。その折はよろしくおねがいします。
いつもブログ読ませてもらっています。
思いおこせば、疑い心で覚えて聞いていた頃は、苦しいだけで味がありませんでした。
そのまま聞いて味わえば、忘れた分だけ味が残りますね。
聞いても味があり、忘れても味がある。
忘れるためにも聞かないと・・・?