たったひとつの、ほんの小さな灯《ともしび》でも,それを使えば百,千の灯をともすことができる.いずれともしびは満ち溢れ、遂には全《すべて》ての暗闇を打ち消す時がくるが,それでも灯はなくなることはない.
(ぶんのすけ訳『維摩経』)
スペインに,サンディアゴ・デ・コンポステーラという町があります.昔からキリスト教の巡礼の町として有名なところで,今でも,ここの教会を目指してヨーロッパ中から巡礼たちがやってくるそうです.
巡礼の旅は,日本のお遍路さんと同じで歩くのが原則です.夜になると,スペインの広い荒野に天の川が懸かる.荒野の果て,その天の川が地面に流れ落ちるあたりに聖地,サンディアゴ・デ・コンポステーラがある.巡礼たちは,天の川に導かれて聖地に向かった・・・.そんな話をずいぶん昔に聞いたことがあります.サンディアゴ・デ・コンポステーラという名の響きとともに,印象に残る話でした.
無尽灯の一節を読んだとき,道綽禅師のお言葉とともにこの話を思い出し,こんな情景を想像しました.
真っ暗な野原の中に,ぽつんと小さな一つの灯が見える.と,その灯が2つになり,3つになり,やがて野原一面に無数の灯りがまたたく.巡礼たちが天の川に導かれて聖地を目指したように,私たちは,野原にきらめく無数の小さな灯に導かれてお浄土への旅を続ける・・・.
親鸞聖人がお引きになっている道綽禅師のお言葉を,『安楽集』から改めて引用します.
前《さき》に生ずるものは後《のち》を導き,後に去《ゆ》かんものは前を訪《とぶら》ひ,連続無窮にして願はくは休止《くし》せざらしめんと欲す.無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり.
(道綽禅師『安楽集』)
【補足】
釈破旬さんのリクエスト(?)にお応えして,道綽禅師のことについて今日から三夜連続で書いてみます.実は,以前,「温泉津組テレホン法話」でお話したことの焼き直しなのですが・・・.ただ,私の悪い癖で,周辺をうろうろし,‘核心は察してね’っていう文章になりそうですので,あとのことは各自でヨロシク・・・.
ぶんのすけ訳『維摩経』:「超訳文庫」所収.引用は,「第13話 持世菩薩」から.
この‘超訳’は,「むっちゃイケてる別嬪さんのグルーピーが1万2千人も彼の後ろに付き従って、ノリノリで歌い踊っている」などという文章が出てくる,それこそ‘ノリノリ’の翻訳です.でも,『維摩経』には合っているのかも・・・.
訓読を挙げておきます.
「維摩詰言わく、『諸姉(しょし、ミナサン、姉は女人に対する丁寧な呼びかけ)、法門あり、無尽灯と名づく。汝等は、まさに学ぶべし。無尽灯とは、譬えば、一灯もて百千灯を燃やせば、冥(くら)き者は皆明らかにして、明(光明)はついに尽きざるが如し。」
(http://www.geocities.jp/tubamedou/Yuima/Yuima01c.htm#%E6%8C%81%E4%B8%96%E8%8F%A9%E8%96%A9から)
因みに,この場面には「パーピーヤス(波洵)」という悪魔が出てきます.釈破旬さんのリクエストだからパーピーヤスが出てくるお経から始めた,ってわけでもないのですが.
天の川に導かれて・・・:これは,昔,ラジオ放送で聞いた話ですが,確認がとれません.地図を見ても,天の川の流れと一致している部分は多くなさそうです.いくつかの本にも当たってみましたが,そんな記述はまだ見つけることができません.サンディアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道が「星の道」と呼ばれたことは事実のようですが.
道綽禅師『安楽集』:『浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)』p.185
ありがとうございます。
他化天の大魔王の名前が 破旬(波洵)と聞いて
自分でハンドルネ-ムをつけました。他化自在しようとする根性は堅固なので 石 の方がふさわしいでしょう。本名in浄土は 宝樹と申します。
火はいくら分け与えても減ることはありません。後を導くことはできそうにありませんが、一緒に燃えて光るくらいはできそうです。
続きをよろしく お頼み申す!!