おやのかんなんくろう《艱難苦労》の おじひ
これを さいちが ききとると
おもうてをったは そりゃまちがいよ
おやのかんたんくろうの 六字
これにさいちが ききとられ
なむあみだぶに もうされて
ごおんうれしや なむあみだぶつ
(『ご恩うれしや』 p.16--17)
以前,「聞かなきゃ始まらないけど,聞いてみたら,聞いたからではなかった,聞こえていたのだった」という言葉を紹介しましたが(2010年2月3日付け),これは,森田眞圓先生が,才市顕彰法要でお話くださったことでした.前回は,聴聞でお聞きしたことでしたのでお名前を伏せさせていただきましたが,『季刊 せいてん』にこのことをお書きになっていましたので,改めて,お名前を記して引用します.
「往くを聴といい,来《きた》るを聞という」(『大漢和辞典』)というように,こちらか側から「ききに往く」のを「聴く」と表します.・・・
浄土真宗のみ教えは,「聴」かなければ始まりません.阿弥陀仏の本願の教えを,こちら側から「ききに往く」ということがなければ,教えの内容がわかりません.聴かなければ始まりませんが,「聞」えてみれば,聴いたからではなかったと知らされるのです.
私たちは普通,自らが「ききに往く」ということを積み重ねた結果,何らかのものが聞こえてくると考えます.けれども,阿弥陀仏の本願のはたらきが私に届いているということが,「聞」こえてみれば,私が聴いた功績,私が積み重ねた結果によってではなく,最初からすでに私のところに本願のはたらきが届いていたと気づかされるのです.
ですから,聞こえてみれば,私が聴いたからではなかった.最初から私に届いていたと知らされるのです.・・・
(森田真円 「はじめて学ぶ親鸞聖人の教え 6」)
自分の力では決して救われることのない私の悲しみをききとり,真実に耳を傾けようともしない私の姿をあわれみ,そのような私を摂取するためにたてられたのが阿弥陀様の本願です.これを才市さんは,「才市がききとる」のではなく「才市が ききとられ」ていたと歌ったのでした.
【補足】
森田真円:『季刊 せいてん』(本願寺) No.90(2010 春の号), pp.11--12.
ついでですが,前回の記事は,なぜご講師のお名前を伏せるかといういい例になってしまいましたので(^_^;),このことについて:
2月3日の記事では,「聞」と「聴」を書き分けて損ねていました(お気づきのかたも多かったとおもいます.ああ,豆腐の角に頭ぶっつけたい).まぁ,この程度ことでしたら,引用した私のせいだということはすぐわかります(再び,あぁ・・・).
しかし,引用の仕方がおかしいのに,元がおかしいと誤解されるような引用をしてしまう場合もあるかと思います.引用の内容が変だと思われた場合は,必ず引用元にあたってください.そのために,うるさく感じられるかもしれませんが,引用に際してはできるだけ出典を細かく記します.
他方,筆記録や録音が広く公開されていないご法話などは引用元に当たって確認することができません.このような場合には,原則としてお名前を伏せることにしています(引用であることは明記します).