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[才市] 聞いて助かるじゃない
旧ブログ 2010年1月30日 (土)

きいてたすかるじゃない 
なむあみだぶに 
もうしとられて 
(『ご恩うれしや』p.12)

 「ただ仏法は聴聞にきわまる」(蓮如上人).しかし,その聴聞にまで自力のはからいを加えてしまうのが私の姿です.‘これだけ聞いたから大丈夫’と.

 才市さんにはこんな歌もあります.

よくきいた きいたこころはたまにきず 
領解(りょうげ)たのんで みだをたのまん 
(『ご恩うれしや』p.53)

 領解ということも真宗では大切にされますが,これも‘私が正しく理解したから救われる’と思ってしまうと,阿弥陀さまから離れてしまいます.

 お念仏の道は,もっとも簡単でやさしい道なのに,これほど難しいものはないというほどに私が難しくしている・・・.正信偈の一節を痛感させられる歌です.

弥陀仏の本願念仏は,邪見・驕慢の悪衆生,信楽受持することはなはだもつて難し.難のなかの難これに過ぎたるはなし.

【補足】
 ‘言わずもがな’ではありますが,‘だったら聴聞なんかしなくていい’とか,‘領解なんてどうでもいいだね’と聞き間違いされませんように.

 『蓮如上人御一代記聞書』末 193(『注釈版聖典』p.1292)
「至りてかたきは石なり,至りてやはらかなるは水なり,水よく石を穿つ,心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり.いかに不信なりとも,聴聞を心に入れまうさば,御慈悲にて候ふあひだ,信をうべきなり.ただ仏法は聴聞にきはまることなりと.

 「正信偈」
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

コメント

聞き違いをしていました。私は今まで「弥陀仏の本願念仏は,信楽受持することはなはだもつて難し.難のなかの難これに過ぎたるはなし.」と思い込んでおりました。
知り合いの女性に、いつも 「私は死んだら、船に乗ってお浄土へ行くも~ん」と口癖のように云っている人がいます。返す私は「ホントか~?、疑いなく信じられるのか?、難中の難 とか 極難信 とか親鸞さんは言ってるゾ~!!、ば-か」と・・・
このブログの才市さんの詩と解説を読んで、 正信偈の 邪見驕慢悪衆生 を読み落としていることに気付きました。大事な目当てを・・・
次回、彼女に会ったときは 素直に謝りたいと思いますが、また同じパタ-ンの
問答になるかも知れません。自分の馬鹿さは知られたくないので・・・
今から ご恩うれしや を再読します  では

 そうなんですよねぇ.「このままのお助けですね!」は間違いだけど,「このままのお助けなどあるわけがない」も間違い,「難中之難無過斯」はその通りだけど,「信楽易行水道楽」も本当・・・.私も,わかっていたつもりが実はそうでなかった,その繰り返しです.

 「まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、・・・[人の執心,自力のしんは]なほもすこし残るところのありけるや」という親鸞聖人のご述懐が心に沁みます.

 でも,そうやって繰り返し繰り返し気づかされることが苦痛ではない.どこまで続くぬかるみぞって絶望するわけではない.確かに,わっと叫んで,恥ずかしさに布団引っかぶってひっくり返りたいような気分になりますが,同時に,そうだったのか,とむしろ心が華やぐような気持ちになれるのがありがたいところです.この調子だと,死ぬまで退屈しません(^_^;;).

 追記です.コメント中の対話,実際にはどのような雰囲気での会話かはわかりませんが,読んだとき,いいなぁと思いました.でも,何がいいのか,その場ですぐ文章化できなかったので,改めて,記事を書かせていただきました(3月28日付け).ひょっとすると,コメントの趣旨を外しているかも知れませんが,その場合はお許しください.

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