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[才市] 今日も来る日もやーいやーい
旧ブログ 2012年3月27日 (火)

才市よい うれしいか ありがたいか
ありがたいときゃ ありがたい
なっとも《なんとも》ないときゃ なっともない
才市 なっともないときゃ どぎぁすりゃあ《どうするか》
どがあも《どうとも》 しようがないよ
なむあみだぶつと ドングリヘングリしておるよ
今日も 来る日も やーいやーい
(楠, 二, p.240)

 「その日暮らし」と言うとどんな感じがしますか? 私にとっては,否定的な感じが強い言葉ですが,その一方で,この言葉が半ば肯定的に使われているのを読んで心引かれるものを感じたことがあります.

レオトーのように,自覚的に「その日暮らし」に徹底し,積極的に現在を楽しむことを生活の原理とした者は,極めて稀である.そのためには,名声や金や権力など他の多くのものを犠牲にしなければならない.
 「私はあまりにも静かさを愛する」といい,また「私はあまりにも余暇を愛する」といったレオトー[後略]・・・.
(加藤周一, p.202)

 さて,「一日の苦労は一日にて足れり」という言葉がありますね.“ソロモンの栄華も野の百合にしかず”とともに良く知られていると思いますが,私は高校の授業で聞いたような気がします.非常に印象深い言葉として聞きました.ただし,他人事として.つまり,キリスト教を最初に受け入れた,社会の底辺に暮らす人々にとって,この言葉は大きな慰めだったろうと・・・.

栄華を極めたソロモンでさえ,この花の一つほどにも着飾ってはいなかった.今日は生えていて,明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ,神はこのように装ってくださる.・・・[中略]だから,明日のことまで思い悩むな.明日のことは明日自らが思い悩む.その日の苦労は,その日だけで十分である.
(マタイ 6:29--34)

 先の“その日暮らし”は,「名声や金や権力」など犠牲にできるものをたくさん持っている人の選択肢の一つです.それに対し,そのようなものを最初から持っていない人々に向けられたのが聖書のこの言葉でしょう.そういう違いのせいでしょうか,この二つを一つのこととして受けとることができませんでしたが,でも,「一日の苦労は一日にて足れり」とは,「その日暮らし」のことですね.今日,この一日を大切に生きようという点では同じような気がします.

 「ひと息 ひと息が 今生の 暇乞い また出る息が 未来かな」という才市さんの口あいも「その日暮らし」の口あいと言えそうな気がしますが,これはすでにご紹介しましたので,今回は別の口あいを掲げて見ました.
 この口あい,ご法話などで引用するとすれば,喜ぶべきことを喜べない凡夫の姿をを歌った口あいとして,特に前半に注目することになるだろうと思います.でも,そうやってドングリヘングリしているという最後の二行あたりに,どことなく“その日暮らし”が感じられるような気がしますが,いかがでしょうか.

【補足】
 楠, 二, p.240:楠恭編『妙好人才市の歌 全』の二, p.240(二の第9ノート, 27番).
 加藤周一, p.202:加藤周一 「その日暮らしまたは『ある日の言葉』の事」(『言葉と人間』, 朝日新聞社, 1977).
 マタイ 6:29--34:『聖書 新共同訳』, 日本聖書協会, 1987.

 一ヶ月のご無沙汰でした.1週間ほどの仮釈放です.病床のつれづれに「半七捕り物帖」(岡本綺堂)を読み返し,その勢いで,「なめくじ長屋」シリーズ(都筑道夫)再読(再々読?)に取り掛かっています.この「なめくじ長屋」のような人々こそ,キリストが語りかけた人だったのではないかなんて思っています.帝政ローマと江戸時代の日本とはぜんぜん違うでしょうけど.

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