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「第二の矢を受けず」(仏典)
旧ブログ 2012年1月24日 (火)

比丘たちよ,まだ教えを聞かぬ人々は,苦受をうけると,嘆き悲しんで,いよいよ混迷するにいたる.それは,ちょうど,第一の矢を受けて,さらに第二の矢を受けるに似ている.それに反して,すでに教えを聞いた人は,苦受をうけても,いたずらに嘆き悲しんで,混迷にいたることがない.それを,私は第二の矢を受けず,というのである
(増谷, p.131)

 あるときお釈迦様は,お弟子方にこう問いかけられました.
 仏教を聞いている者も,未だ聞かぬものも,苦し目にあったり,楽しい目にあったり,なんでもなかったり,そういう点ではまったくいっしょである.一体,仏教を聞いている者はそうでないものと違うことがあるのだろうか,と.
 仏教を聞いていても病気にもなるし,死ぬときは死ぬし,金持ちになることが保障されるわけでもない.いったい仏教を聞く意味があるのか,ということですね(言い換えれば,仏教は,無病息災・商売繁盛を祈るようなものではないとはっきり宣言されているわけです).
 それに対する答が冒頭の引用です.前回いただいたコメント「世間の苦にとらわれない」でこの喩えを思い出しました.

 因みに,この話をお聞きになったある俳優の方(お名前を忘れました)が次のようにおしゃっているのを新聞のコラムか何かで読んだ覚えがあります.

舞台でセリフをトチると,動揺してしまって,トチるはずのないセリフまで続けて間違ってしまう.第二の矢を受けるとは,喩えて言えばそういうことだろう・・・

 非常に良く分かる喩えですね.

【補足】
 増谷, p.131:増谷文雄『仏教百話』(ちくま文庫, 1985)の第60話(pp.130--131)より.

コメント

常春(夏は熱帯ですが)の国といわれている東海地方ですが、今日は珍しく雪となりました。日本海側の大雪の報道が続きますが、島根でも松江の情報は流れますが石見の状況はわかりません。いかがですか?天候も体調も・・・
たしかに教えを聞いている人はそうでない人と比べ、悲しいことや苦しいことに遭遇しても心に少し余裕を持ってみえるかもしれませんね。反面、苦しみや悲しみを、他人のせいにして心を一時的に紛らわすことはできませんので、厳しさがありますね。
米沢英雄さんのお話を聞かれた方が、法話後面会にみえて「あんたの話は 痛い!!」と言われたそうです。米沢さんは「浄土真宗は 痛いんです!」と答えられたようです。
最近、法話を聞いていて笑うことがなくなりました。周りのみなさんはゲラゲラと笑っているのにです。話の中の笑いの目当てが自分であると自覚すると笑えなくなり、ただ頷くばかりです。
それにしてもこの寒波、寒いですね。直前に頭を坊主刈りしたので、帽子が必需品となりました。寝てる間も・・・・
ご元気で!!

こんばんは.お返事,随分遅くなりました.
 実は上の記事を書いた日,あれよあれよと言っているうちに,地上8階の独房に拉致・監禁(?)されてしまいました.
 今,仮釈放で帰っていますが,明日からまた入院です.
 というわけで,このblogもどうなるか分かりませんが,機会があれば更新しますので,時々覗いてみてください.

 独房に収容された夜は,第二の矢どころか,第三の矢以下,100本ぐらい矢を受けた感じですが,でも,まあ,そんなもんでしょう・・・?

 「愚かに嘆き悲しむ人こそ,阿弥陀様が救おうと誓われた人である」
(『口伝承』大意.再掲 http://houju.txt-nifty.com/blog/2010/02/post-4a48.html )

ある方がjunkさんの近況を教えて下さいました。本釈放されることを祈っています。お祈りしてはいけない宗風ですが、それしかできません。
最新の書き込み記事はちょっと理解するには時間が掛かりそうですので
忘れたころにコメントをさせていただきます。
とにかく お大事に・・・・釈宝樹

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